応仁の乱を生きた人々 第8回 後土御門天皇
もしも、自らが祈り続けるこの国が、自分の目の前で、自分を「崇める」はずの臣下たちの手によって、地獄の業火に包まれていくのを見つめ続けるしかなかったとしたら。その絶望は、どれほど深いものだろうか。
室町幕府の守護大名たちが、それぞれの「義」を叫んで刀を血で洗っていたとき、その戦火の真ん中で、ただじっと耐え、祈り、そして壊れていった男がいた。第103代・後土御門天皇である。
前シリーズ【敗者たちの幕末】で描いた渡辺崋山が学問に殉じ、鳥居耀蔵が法に殉じたように、後土御門天皇にもまた、「国家の最高祭祀者として、民の平穏を祈る」という絶対の務めがあった。しかし、応仁の乱という時代がこの若き天子に強いたのは、その祈りが何一つ届かないという、残酷な「無力」の連続だった。
燃え盛る天の位
成王(のちの後土御門天皇)は、父・後花園天皇から譲位を受け、23歳で即位した(寛正5年・1464年)。
当時の朝廷は極度の財政難に喘いでいたが、足利義政の執政のもと、京都の街には室町文化が花開き、表面上は穏やかな日々が続いていた。若き天皇は伝統的な儀式を重んじ、国家の安寧を祈る日々を送っていた。
しかし、即位からわずか3年後、応仁の乱が勃発する。
応仁元年(1467年)5月、上京を中心に大規模な戦闘が始まると、天皇家が暮らす内裏のすぐ近くまで戦火が迫った。怯える公家たち、飛び交う矢、空を黒く染める煙。
将軍・足利義政の勧めにより、後土御門天皇は母や三種の神器を抱え、命からがら花の御所へと避難(臨幸)した。この時、天皇の胸にあったのは一時的な避難のはずだった。しかし、彼が再び自らの内裏に戻るまでに、30年という果てしない歳月が必要になるとは、誰も想像していなかった。
敵と味方が同居する「檻」
避難先となった花の御所は、奇妙で息の詰まる「檻」だった。
御所は細川勝元率いる東軍の本陣となったため、武骨な兵士たちが溢れ、天皇が静かに祈りを捧げるべき空間は完全に戦場の一部と化した。
さらに皮肉なことに、西軍の山名宗全らは「天皇が東軍に人質として捕らわれている」と主張し、独自の権力をでっち上げようとした。結果、「東の天皇」と「西の天皇」という異常な状況が生まれる。
自らの存在が、武士たちの戦争を正当化するための道具として利用されていく。
「私は、何のためにここに座しているのか」
天皇は、それでも神仏に祈り続けた。どうかこの狂気をおさめてほしい、と。しかし御所の外からは、今日も都の寺社や公家邸が焼け落ちる音が聞こえてくる。天皇の祈りは、大名たちの野心と怨念の前に、完全に無力だった。
精神の摩滅と、すり切れた衣服
戦いが10年を超えた頃、天皇の心は限界を迎えていた。
朝廷の収入源であった荘園は守護や国人たちに横領され、京都への仕送りは途絶えた。宮中の暮らしは極度の窮乏を極め、女官たちはすり切れた衣服を何度も仕立て直して身に着け、震えていたという。
文明9年(1477年)、大名たちが勝手に戦いをやめて京都を去ったとき、残されたのは骨組みだけになった焼け野原の都と、困窮しきった朝廷だけだった。
乱が終わっても資金がなく、内裏を再建できなかった後土御門天皇は、将軍の御所の一角で、居候のような生活を長く続けざるを得なかった。
「天下の主でありながら、自らの家すら直せぬとは」
その屈辱と無力感は、生真面目な天子の精神を内側から削り取っていった。
最後の「抗議」
明応9年(1500年)9月、後土御門天皇は失意の中で崩御した。享年59。応仁の乱の始まりから終わりまでを、都の真ん中で見届け、耐え続けた人生だった。
しかし、彼の悲劇は死をもってしても終わらなかった。
朝廷には天皇の葬儀を執り行う費用が一銭も残っていなかった。崩御した天皇の遺骸は棺に納められたまま、なんと40日以上もの間、宮中に放置されるという前代未聞の事態となった。腐敗を防ぐために、遺体の周囲には大量の水銀が敷き詰められたという。
最終的に室町幕府や一部大名からの寄付が集まり、ようやく葬儀が行われたとき、公家たちは涙を流して朝廷の凋落を嘆いた。
後土御門天皇という人生の無理は、武力が支配する狂乱の時代に、形骸化した「権威」の頂点に座らされ続けたことにあった。
彼は刀を振るうことも、誰かを糾弾することもできなかった。しかし、40日以上もの間、宮中に留まり続けることになったその姿は、武士たちが権威だけを利用し、その権威を支える責任を果たさなかった時代そのものを、皮肉なほど鮮明に映し出しているように思える。
祈ることしか許されなかった天子の、冷え切った悲しみの体温が、室町という時代の終焉を静かに告げていた。
(第9回 一条兼良編に続く)
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