【敦盛と直実】前篇:朝露の命――平敦盛という敗者
これまで私は、歴史コラムのなかでいくつもの「敗者」を書いてきた。
泥をすすってでも生き延びた者たち。主家を失ってなお生にしがみついた者、時代に踏みつけられながらも意地だけは捨てなかった者、みじめさと屈辱を抱えたまま、それでもなお地べたを這って生きた者。そういう人間に、私はどうしても惹かれてきた。
敗れたあとにこそ、人間の体温は濃く出る。勝者の歴史には大義があるが、敗者の人生には息遣いがある。
私はそう思ってきた。
だが、歴史にはもう一つ別の敗者がいる。泥をすすって生き延びることすら許されず、あまりにも早く、あまりにも美しく散ってしまった敗者である。
平敦盛。
平家の公達。わずか十六、あるいは十七で世を去った少年である。
長く生きることが価値だとすれば、彼の人生はあまりに短い。何かを成し遂げたわけでもない。天下を動かしたわけでもない。敗戦の中で討たれた、ただ一人の若武者にすぎない。
だが、その短さゆえに、かえって人の胸に刺さる命がある。朝露のように、触れれば消える。だからこそ、忘れがたく光る命がある。
敦盛は、そういう敗者だった。
平家の末期、一門の運命はすでに傾いていた。栄華をきわめた一族は、もはや都の主ではなく、追われる側になっていた。昨日まで雅を尽くしていた者たちが、今日は波打ち際で命を賭ける。
その落差の大きさこそ、平家という一門の悲劇である。
だが、敦盛という少年を思うとき、ただ「滅びゆく平家の一員」とだけ言ってしまうのは、どこか乱暴な気がする。
彼は滅びの記号ではない。ひとりの若者だった。まだ生きる時間が、もっとあったはずの人間だった。おそらく彼は、平家の誇りの中で育った。武だけではない。雅を知り、音を知り、身のこなしを知り、言葉の気配を知る。戦場にあってなお、笛を携えていたという逸話は象徴的だ。『平家物語』では「小枝」と記され、後世には「青葉の笛」として語り継がれるその笛は、史実の細部を超えて、敦盛という人物の輪郭を鮮やかに浮かび上がらせる。
この少年は、ただ敵を斬るためだけに育てられた武者ではなかった。血と泥の戦場にいながら、なお別の世界の空気を身にまとっていたのである。
だからこそ、最期が痛ましい。いや、痛ましいというだけでは足りない。
美しすぎるのである。美しすぎて、かえって残酷なのだ。
寿永三年、一ノ谷。
平家は敗れ、海へ落ちようとしていた。陸では源氏の軍が迫り、波打ち際には敗走する者たちの混乱が渦巻く。
敦盛もまた、馬を海へ乗り入れたという。彼はまだ若い。あるいは逃げ切れたかもしれない。海上の船へたどり着けたなら、生き延びる道もあったかもしれない。
だが、そこへ声が飛ぶ。後ろを見せて逃げるのか、と。敵前で背を向けるのか、と。
呼び止めたのは熊谷直実。この物語の後編で主役となる男だが、ここではまだ、敦盛の前に立ちはだかる「敵将」であればよい。
敦盛は引き返す。ここが、この少年の運命を決めた。生き延びるために海へ向かっていたはずの若武者が、呼び声ひとつで馬首を返す。
それは愚かといえば愚かである。生きることを優先するなら、無視して逃げればよかった。
だが、平家の公達として育った少年には、それができなかったのだろう。名を汚して生きるより、誇りを守って死ぬ。そういう価値観が、彼の骨の髄まで染みていたのではないか。
組み合ってみれば、直実はすぐに気づく。相手はまだ若い。自分の子と同じほどの年頃である。
しかも、ただ若いだけではない。顔立ちはあまりに端正で、どこか戦場に似つかわしくない気品がある。泥と血にまみれた浜辺で、その若者だけが別の光を帯びている。
直実がためらったのも無理はない。だが、戦場ではためらいは長く続かない。味方が迫る。ここで見逃せば、自分が武士として立たない。
討つしかない。その「討つしかない」という理屈の冷たさが、かえってこの場面を痛切にする。
敦盛は、そのためらいを察したのだろう。助命を乞うたとは伝わらない。むしろ、早く首を取れと促すような潔ささえ感じさせる。十六、十七の少年が、死の間際にそこまで落ち着いていられるものかと思う。だが、そう思わせてしまうところに、敦盛という存在の異様な完成度がある。
若いから未熟だった、ではない。若いのに、すでに出来上がっていた。平家の誇りも、武者の覚悟も、そして散り際の美学までも、あまりに早く身につけすぎていたのである。
直実の太刀が下りる。
平敦盛の十六年は、そこで終わる。
だが、なお人はこの少年を忘れなかった。
その理由は、彼が大人物だったからではない。むしろ逆である。あまりに若く、あまりに儚く、あまりに人間の手からこぼれ落ちるように死んだからだ。
戦ののち、直実が敦盛の身につけていた笛を見つける場面はよく知られている。武辺一辺倒の荒くれではない、雅を知る若者だったことが、そこで改めて突きつけられる。
私はしばしば、長く苦しみ抜いた人生に重みを見ようとしてきた。それは間違っていない。泥をすすり、恥をさらし、それでもなお生きる者の執念には、たしかに人間の真実がある。
だが一方で、短く燃え尽きる命にもまた、別種の完成があるのではないか。
咲ききる前に散る花。
鳴ききる前に落ちる蝉。
朝露のように、日が高くなる前に消えてしまう命。
それは不完全に見えて、実はその短さごと一つのかたちを成している。
平敦盛は、敗者である。勝ち残った者ではない。生き延びた者でもない。泥にまみれて再起した者でもない。
ただ、一ノ谷の浜で、あまりに早く断ち切られた若者である。
それでもなお、いや、だからこそ、その死は後の世に長く残った。
蛍二十日に蝉三日。
それでも、あまりに短い生涯であった。
だが、この短すぎる十六年の命は、そこで終わらない。その一太刀は、討った側の男の人生にまで食い込み、のちにその生き方を狂わせていく。
朝露のように消えた少年は、しかし一人の男の胸の中で、いつまでも消えなかったのである。
後編へ続く。
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