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【敗者たちの幕末】 最終回 川路聖謨 前編:現実を知りすぎた官僚――幕末の崩壊を冷静に見ていた男

 渡辺崋山は私の原風景だ。高野長英は交差しなかったが胸がざわつく。鳥居耀蔵はどの組織にもいた。江川英龍は私たちだ。安倍正弘は、なりたかったのに、なれなかった男だ。松平春嶽は、なれたはずなのに、ならなかった男だ。徳川慶喜は、なりたくなかったのに、なってしまった男だ。小栗忠順は、なってはいけなかった男だ。松平容保は、ならされた男だ。榎本武揚は、なってしまった男だ。
 では川路聖謨はなんだ。ならなかった男だ。英雄にも、忠臣にも、反逆者にも、設計者にもならなかった。ただ、崩れる国の事務処理を、最後までやりきった男だ。
 
 幕末には、わかりやすい人物が多い。
 剣を抜く者。理想を叫ぶ者。忠義に殉じる者。未来を夢見る者。
 そういう人間は、後世の記憶に残りやすい。好きになるにせよ、嫌うにせよ、輪郭がはっきりしているからだ。
 だが、川路聖謨という人は、そういう人物ではない。
 
 彼は、熱くない。少なくとも、熱さを表に出す人ではない。剣で時代を変えようともしない。大義名分を叫んで人を酔わせることもない。むしろ、ひどく冷静で、ひどく実務的で、ひどく現実的である。そして、だからこそ幕末という時代において、ひどく救われにくい。
 なぜなら幕末は、現実を知っている人間にやさしい時代ではなかったからだ。
 
 川路聖謨を一言で言えば、官僚である。しかも、かなり優秀な官僚である。行政の感覚があり、交渉の感覚があり、外国との関係も見ている。幕府の内側にいながら、その制度の限界も、世界の変化も、かなりよく理解していたはずだ。
 
 つまり彼は、幕末の日本を、感情ではなく骨組みから見ていた人間だった。
 ここが重要である。構造が見える人間は、簡単には熱狂できない。敵味方を単純に分けられない。「こちらが正しい」と言い切ることにも慎重になる。なぜなら、現実はもっと複雑で、もっと汚れていて、もっと逃げ場がないと知っているからだ。
 川路は、まさにそういう側の人間だった。
 
 幕末を動かしたのは、しばしば情念である。攘夷の怒り。討幕の熱。忠義の執念。あるいは、時代を変えねばならないという焦燥。そうした感情が、人を前へ押し出した。だが国家を実際に動かすのは、感情だけではない。交渉がいる。制度がいる。財政がいる。治安がいる。そして何より、現実を見誤らない冷静さがいる。
 川路聖謨は、その冷静さを持っていた。
 
 彼は、おそらくかなり早い段階から、幕府がもはや昔のような絶対的な統治機構ではありえないことを理解していた。外国の圧力は強まる。国内の秩序は揺らぐ。朝廷の存在感は増す。諸藩は独自に動き始める。この状況で、旧来の権威や形式だけに頼っていては、国家はもたない。そうした現実を、川路はよく見ていたのではないか。
 だが、見えていることと、変えられることは違う。ここに、官僚の悲しさがある。
 
 政治の表舞台に立つ者は、ときに無理を通せる。人を動かし、空気を変え、物語を作ることができる。だが官僚は、そうはいかない。制度の中で動き、制度の限界の中で工夫し、壊れかけた仕組みを少しでも延命させる。川路聖謨は、その位置にいた。つまり彼は、時代の崩壊を止める英雄ではなく、崩れゆく制度を少しでも現実的に運用しようとする人間だったのである。
 この役回りは、地味である。だが、地味であることと重要でないことは違う。むしろ国家の危機においては、こういう人間こそ必要だ。
 
 問題は、必要であることと、報われることがまったく別だということである。
 川路の魅力は、理想家ではないところにある。ここを誤ると、この人物は急に弱くなる。彼は、夢を語る人ではない。むしろ夢の危うさを知っている。外国との交渉にしても、国内政治にしても、理想だけではどうにもならないことを知っている。だからこそ、彼の言葉や判断には、どこか乾いた現実感がある。
 
 この乾きは、幕末の読者にとっては少し地味に映るかもしれない。だが、シリーズの最後に置くなら、この乾きこそが効く。なぜならここまで私たちは、理想に燃えた人、忠義に殉じた人、未来を設計した人、滅びきれなかった人を見てきたからである。
 
 その最後に川路を置くことで、幕末の熱のあとに残るものが見えてくる。それは、英雄の伝説ではない。現実を知りすぎた人間の疲労である。
 川路は、たぶん人を信じすぎない。制度も信じすぎない。外国も、幕府も、朝廷も、諸藩も、それぞれに限界と打算があることを知っている。こういう人間は、若いころには有能と呼ばれる。だが時代が末期に入ると、その有能さはしばしば絶望に近づいていく。
 なぜなら、何をしても根本的には間に合わないことが見えてしまうからだ。
 ここに、川路聖謨という人物の深い苦さがある。
 
 彼は、幕末の崩壊を「知らなかった」のではない。むしろ、かなり正確に知っていた。外国との力の差も、幕府の制度疲労も、国内政治の分裂も、全部見えていたはずである。だが、見えている人間ほど、できることは限られる。なぜなら、見えているからこそ、安易な賭けに出られないからだ。
 
 ここで、松平春嶽や徳川慶喜とも少し通じるものがある。見えている人間は、単純な英雄になれない。だが川路の場合、その「見えている」はさらに官僚的で、さらに冷たい。彼は、国家の仕組みのどこが壊れているかを知っている。どこを補修しても、もう全体はもたないかもしれないことも知っている。それでも補修しなければならない。これほど消耗する仕事があるだろうか。
 しかも、こういう仕事は後世に讃えられにくい。成功すれば「当然」と思われる。失敗すれば「無能」と言われる。だが実際には、成功も失敗も、その人一人の力では決まらない。
 川路聖謨は、そういう不公平な場所で働いた人間だった。
 
 彼は、幕末の主役ではない。だが、主役たちが暴れ回る舞台の床を、最後まで何とか支えようとした人間ではあった。そして、その床が抜ける瞬間を、誰よりも冷静に見ていたのかもしれない。
 
 前編の川路聖謨は、まだ完全には絶望していない。だが、希望に酔ってもいない。彼は、現実を見ている。そして現実を見るということは、ときに何よりもつらい。夢を見ている人間には、まだ前へ進む力がある。
 
 だが現実を知りすぎた人間には、前へ進むたびに、その先の破綻まで見えてしまう。
 川路聖謨は、そういう人だったのではないか。幕末の崩壊を、熱狂ではなく、冷静さの中で見ていた男。そして、その冷静さゆえに、誰よりも深く疲れていった男。
 私は、このシリーズで何度も「敗者」を書いてきた。だが川路を書いていて初めて、「敗北とは感情ではなく疲労なのだ」と思った。
 
 この先、彼を待つのは英雄的な最期ではない。もっと静かで、もっと乾いていて、もっと救いの少ない敗北である。


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新苦労の適当コラム ありがとうございます。心より感謝申し上げます