祇園精舎の子守歌――眠れない夜の諸行無常
うちには十九歳九カ月になる寝たきりの老犬、八太郎がいる。水も食事も排泄も、すべて介助が必要だ。夜中に鳴けばすぐに起きられるよう、昨年末あたりから私は病院処方の睡眠導入剤を飲まなくなった。十九歳を過ぎた老犬は、いつ介助を求めるかわからない。以来、薬に頼らず、眠気そのものと交渉する日々が続いている。
ところで話は変わるが、Facebookというメディアは、さながら大河の濁流である。今日、経済や金融の動向に鋭く切り込んだところで、三日も経てばトランプの一言か中東情勢の変化で、言説など跡形もなく流されてしまう。
流動性の高い時事ネタを好んで投稿する私のページには、いつしか保守派とリベラル派が入り乱れ、小さな分断と論争が日常となっていた。そこで私が常々警鐘を鳴らしてきたのが、アルゴリズムが生む「エコーチェンバー」の罠である。
コメント欄を眺めていると、奇妙な既視感に襲われることがある。彼らは自らの頭で考え、自らの言葉で語っているつもりなのだろう。しかし、その論理の組み立て方や手垢のついた語彙からは、ある特定のYouTube番組の影が透けて見える。
私はこれまで、こうした「動画に思考を委ねた人々」を冷ややかな目で見てきた。自身のコラムで、ショーペンハウアーを引き合いに出して、「他人の頭で考えるな」と何度も書いてきた。
ところが、天罰が下ったのだろうか。それともただの加齢による、遅すぎる因果応報か。
そんなある夜、藁をも掴む思いで、あろうことか私が忌み嫌ってきたYouTubeの検索窓を叩いてしまった。「ぐっすり眠れる」という胡散臭い言葉に誘われ、表示された一本の動画を再生する。流れてきたのは、BGMを排した静かな朗読の声――『平家物語』の原文だった。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり――」
驚くべきことに、高校の教科書で『敦盛の最期』の一節を読んだだけで暗記してしまったほど、私は若い頃から古典文学、とりわけ軍記物語が好きだった。五十七調の端正なリズムが耳に滑り込んだ瞬間、脳の尖った神経がみるみる弛緩していくのが分かった。気がつけば、十五分も経たないうちに眠っていた。薬を必要としなかったのだ。
それからの私は、まるで手のひらを返したように、毎晩YouTubeを開く人間になった。『平家物語』に始まり、『太平記』『太閤記』、さらには『方丈記』や『鎌倉幕府の滅亡』に至るまで、時には三時間を超える長尺の朗読動画が、私の夜の伴侶となった。あの盛者必衰の儚い物語が、極上の麻酔薬として機能しているのだ。何という皮肉だろう。
昼間はFacebookで「アルゴリズムの奴隷になるな」などとインテリぶった論考を組み立てている男が、夜になればスマートフォンを枕元に置き、その同じメディアに思考を一時停止させて眠りについている。ショーペンハウアーがこの姿を見たら、何と言うだろうか。しかし、これもまた一種の諸行無常ではないか。
私はYouTubeそのものを敵視していたわけではない。哲学シリーズでずっと書いてきたように、問題はメディアではなく、その使われ方にある。自分で考えることを放棄し、扇情的なコンテンツに思考を丸ごと委ねてしまう使い方こそが、真正の知的怠惰なのだ。八太郎のおかげで薬を断った夜、私はたまたま「良い使い方」に出会った。それが、古典の朗読という、意外な形で。
かつて琵琶法師が語り歩いた平家物語は、中世の人々にとってのメディアであり、世を儚む人々の心を慰めるエンターテインメントだった。それが令和の世で、デジタル電波に姿を変え、現代人の不眠を癒やす道具となっている。
今夜もまた、八太郎の様子を気にかけながら、私はスマートフォンを握りしめて眠りにつくだろう。画面の向こうの琵琶法師に魂を委ねるその心地よさに、もう抗う気力を失っていた。八百年前、闇夜に琵琶法師の語りへ耳を傾けた人々も、きっと同じように心をほどいて眠りについたのだろう。
違うのは、私の枕元にあるのが琵琶ではなくスマートフォンだということだけだ。
祇園精舎の鐘は、八百年の時を越え、今夜も私を眠りへ導いてくれる。
諸行無常とは、案外そんなところにも潜んでいる。
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