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【応仁の乱を生きた人々】 第 1 回 足利義政 後編 ~焼ける都の彼方に~

 後継者問題を先送りにした義政の迷いは、やがて手のつけられない大きな裂け目へと変わっていった。細川勝元を中心とする義視派と、山名宗全が支える義尚派の対立は激化し、畠山・斯波をはじめとする守護大名たちを巻き込んで、京都の街は二つの陣営に分断される。
 
 応仁元年(1467年)、細川方の屋敷が焼かれる事件をきっかけに、ついに戦端が開かれた。東軍・西軍と呼ばれる両勢力が都の町々を舞台に激突すると、戦火は瞬く間に市中に広がった。かつて義満の時代に日本の中心として栄えた京都は、たちまち炎と煙に包まれる。寺社や公家の屋敷、民家が次々と焼け落ち、道には逃げ惑う人々の姿が絶えなかった。
 この大乱の真っ只中に立たされた将軍・義政は、何をしたのか。
   
   傍観者となった将軍
 
 本来、将軍こそが争いを抑え、秩序を回復する責務を負う立場にあった。しかし義政には、泥沼に踏み込んでどちらかを断罪し、軍を指揮する覚悟も力もなかった。彼は「両軍とも幕府の臣下である」という立場を崩さず、調停を呼びかけるばかりで、明確な命令を下せない。
 
 東軍が優勢になれば西軍に同情し、西軍が盛り返せば今度は東軍の言い分に耳を傾ける。そのはっきりしない態度が、かえって両陣営の不信を深め、「将軍に従っても意味がない」という空気を生んだ。やがて義政自身も自分が何をすべきかわからなくなり、政治の表舞台から徐々に身を引いていく。
 
 花の御所にいても、耳に入るのは戦いの報せ、都の荒廃、民の苦しみばかりだった。自分が決められなかったことが、これほどの惨禍を招いたのだ——その責任の重さに、彼は押しつぶされそうになったのかもしれない。政治の世界に居場所を見失ったとき、義政が逃れた先は、やはり「美」の世界だった。
 
 乱が始まって数年後、彼は都の東山に山荘を造り始めた。戦火が京の町を焼き、飢えと病が人々を苦しめるさなか、義政は庭石の配置を吟味し、池の形を設計し、掛け軸や茶碗の選択にまで心を砕いた。これを見た人々からの批判は激しかった。「民が餓えているのに将軍は遊びにふけっている」「国が乱れているのに、何を考えているのか」——後世の歴史家たちも、この点を挙げて義政を「無責任な暗君」と断じてきた。
 しかし、それだけで片付けてしまうのは、あまりに人間の心を単純化しすぎている。
   
   乱世に咲いた美の精神
 
 東山の山荘で過ごす時間だけが、義政にとって「自分でいられる」瞬間だったのかもしれない。将軍として何も解決できず、ただ混乱を深めるだけの自分から解放され、芸術の世界では「よい」「美しい」とはっきり判断できた。庭の木々の配置、月明かりの水面、茶を点てる所作、和歌の一字一句——そこには迷いも曖昧さもない、明確な秩序があった。
 
 文明5年(1473年)、義政はついに将軍職を実子の義尚に譲り、東山に隠棲した。この頃、応仁の乱はすでに7年目に入り、当初の目的も名分も失われ、ただ「負けられない」という意地だけで戦いが続いていた。彼は政治を完全に手放し、残りの人生を美の追究に捧げる道を選んだ。
 
 東山山荘の中心に建てられた観音殿(銀閣)は、祖父・義満の金閣とは対照的だった。金閣が権力と富を誇示する華やかな造りであるのに対し、銀閣は質素で簡素。余計なものを削ぎ落とし、内面的な深みを重視する。ここから生まれた東山文化は、「わび」「さび」の美意識を育み、後の書院造、茶の湯、生け花、連歌など、日本の伝統芸術の基礎となっていった。
 
 戦乱のただ中で育まれたこの美意識には、不思議な力がある。力や富では何も解決できないことを、義政自身が身をもって知ったからこそ、「小さなものの中に無限の豊かさを見出す」境地に至ったのだろう。それは単なる逃避ではなく、絶望の時代の中で別の価値を求めた歩みでもあった。
   
   決められなかった男の遺産
 
 応仁の乱は勃発から11年後の文明9年(1477年)、両軍とも戦い続ける力を失ったことで終息した。勝者などおらず、都は焼け野原となり、幕府の権威は失墜。守護大名たちは自領に専念するようになり、日本は「戦国時代」という新たな乱世へと突入していく。
 
 義政はその後も東山で静かに暮らし、明応2年(1490年)、55歳でこの世を去った。晩年には後を継がせた義尚にも先立たれ、将軍家の将来に不安を抱え続けたという。
 自分の人生を振り返ったとき、彼は何を思っただろうか。「もしあのとき、はっきりと決めていたら」「もっと強く生きていたら」——そんな後悔が、胸の奥にあったのかもしれない。
 
 歴史の評価は一筋縄ではいかない。乱世を招いた暗愚な将軍と見る向きもあれば、力の論理が支配する時代に「美」という別の価値を残した人物と見ることもできる。彼は確かに「決められない男」だった。その迷いが大乱の引き金となったのも、また事実だ。
 しかしその迷いの裏側には、争いを嫌い、平穏を望み、美しいものに心惹かれる、ごく普通の人間の弱さと優しさがあった。応仁の乱に勝者がいなかったように、義政もまた、時代の歯車に翻弄され、多くのものを失った「敗者」の一人だったのかもしれない。
 
 それでも、彼が残した東山文化は、戦乱の時代を越えて今に受け継がれている。権力が崩れ、秩序が失われた世界で、人間はどう生き、何を拠り所にすべきか——その答えの一端を、彼は銀閣の庭に差し込む月の光の中に、そっと残していったのだ。
 
 次回は、義政と共に将軍家の内側にありながら、まったく異なる立場で乱世を生き抜いた女性・日野富子を描きます。悪女のレッテルの下に隠された、母として、妻として、一人の女性としての彼女の姿に迫ります。
(続く)


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