八太郎殿の生活ーー序章
いよいよエッセイのネタが尽きた。
なにしろ今の私の最重要任務は、十九歳十カ月で寝たきりになった老犬・八太郎の介護である。朝も昼も夜も、殿の寝返り、水、排泄の呼び出しに馳せ参じる日々。そんな生活で、街角でふと出会った洒落た出来事をエッセイに、などという優雅な発想はとっくに捨てた。
ならばもう、書くものは一つしかない。
こうなったら八太郎の大河ドラマを書いてやろう。そう思い立ち、一応本人にも相談した。すると隣でいびきをかいていたはずの殿が、寝たまま言った気がした。
「NHKの大河を超えるものを書け」
さすがのNHKも、犬の大河はやったことがないはずだ。あの忠犬ハチ公でさえ映画止まりである。
私は背筋を伸ばし、答えた。
「殿、かしこまりました!」
さて、初めて読む方のために言っておくと、八太郎とはどこの馬の骨とも知れぬ、雑種中の雑種である。昔なら鍋に入れられて食われていたという、あの「赤犬」である。そのあまりに駄犬な境遇を憐れみ、私は源氏の棟梁・八幡太郎義家公から一字を拝借して「八太郎」と名付けた。
この物語は、その駄犬が、愛知県東栄町の山奥で貰い手がなければ殺処分という絶体絶命から、三ヶ日名物のみかん最中ひとつで命拾いし、以後ご主人様に大迷惑をかけ続けながら、松阪牛だの名古屋コーチンだの、キャビアだのうな重だの、しゃぶしゃぶだのすき焼きだの特上カルビだのを平然と食らって十九年十カ月も生き延びてしまった、という、ただそれだけの、しかし当事者にとっては壮大すぎる犬生の記録である。
ちなみにタイトルには、二つの作品への一方的な対抗意識が込められている。井上ひさしの『ドン松五郎の生活』と、NHK『鎌倉殿の13人』である。だからこのタイトルだけは譲れない。誰に何と言われようと、主人公の八太郎自身が許さないはずだ。
思えば被害は数え切れない。高級髭剃りは四本、ダンヒルの財布と小銭入れは無残な姿に、高級家具は牙の跡だらけ。散歩に出れば他所の犬に喧嘩を売り、血統書付きのお嬢様犬に身分違いの恋をしたこともあった。
そんな殿も、今は私の隣で静かに眠っている。
かつてご主人様だったはずの私は、いつの間にか長生きしてくれた御恩に報いるため、忠実な御家人に成り下がった。
犬の仙人になりつつある駄犬・八太郎の、壮絶にして大迷惑な大河ドラマ。いよいよ幕開けである。

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