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【鎌倉に呑まれた者たち】第1回畠山重忠

 鎌倉武士というと、勇ましい、潔い、強い——そんなイメージが先に立つ。だが、鎌倉という時代をもう少し人間の側から見てみると、そこには息苦しく、ねっとりとした風景が広がっている。敵に討たれる前に、まず身内に疑われる。忠義を尽くしても煙たがられる。立派であればあるほど、かえって生き残れない。
 
 この連載で追いかけたいのは、名誉や忠義や意地を抱えたまま、鎌倉という濁流に呑み込まれていった者たちである。その最初に置きたいのが、畠山重忠だ。「武士の鑑」と称された男である。
 
 後世の語り口は、だいたい決まっている。清廉潔白、質実剛健、勇猛にして私欲なし。源平合戦をくぐり抜け、鎌倉幕府成立後も頼朝に厚く信任された武蔵の名族・畠山氏の当主。武勇だけでなく、その実直な人柄でも知られた。永福寺の庭池に据える大石を一人で運んだという怪力の逸話もあれば、『平家物語』では鵯越の急坂で馬を傷つけまいとして背負ったとも語られる。史実と伝承が入り交じりながらも、後世の人々はそこに、強さと優しさを兼ね備えた理想の武者を見たのだろう。
 
 こうした話には美化もあるに違いない。だが、それでもなお「畠山重忠とはこういう男だ」と信じられ、語り継がれてきた像がある。力任せではなく、見栄でもなく、武士でありながら節度を失わない男。なるほど、たしかに立派である。だが私はこの「武士の鑑」という言葉を聞くたび、少し冷めた気持ちにもなる。立派な人間は、いつの時代も称えられる。だが、立派な人間が生き残れるとは限らない。むしろ濁った政治のなかでは、その立派さそのものが危うい。
 
 頼朝が生きていたあいだ、鎌倉はまだ一人の強い棟梁のもとで辛うじて均衡を保っていた。しかし頼朝が死に、将軍家が若く脆くなると、状況は一変する。御家人たちはそれぞれに功績と自負を抱え、北条氏は外戚として着実に権力の中枢へ食い込んでいった。ここから先の鎌倉は、外敵との戦いよりも、身内同士の疑心暗鬼のほうがよほど恐ろしい。誰が将軍に近いか。誰が兵を動かせるか。誰が「謀反の気あり」と言い出すか。そうした湿り気を帯びた権力闘争のなかで、多くの者が消えていく。重忠もまた、その一人だった。しかも彼は、野心満々の策士として滅んだのではない。むしろ逆で、余計な野心が薄く、武士としての筋を通そうとしたからこそ、逃げ道を失っていった。
 
 直接のきっかけは、北条時政とその後妻・牧の方をめぐる権力の動きだった。前年、重忠の子・重保は京都で、牧の方の娘婿である平賀朝雅と争論を起こしている。その遺恨を引きずるように、やがて重忠父子には謀反の疑いがかけられた。背景には、武蔵国の有力者である畠山氏を排除し、権力を固めようとする思惑があったとも考えられている。少なくとも、重忠が本当に謀反を企てていたと裏づける確かな材料は乏しい。
 
 元久二年(1205年)六月、時政はついに討伐に踏み切る。重忠の嫡子・重保はまず鎌倉に呼び出され、由比ヶ浜で三浦義村らの兵に囲まれて討たれた。父子を切り離し、重忠を孤立させるやり方だった。そのうえで重忠には、急ぎ鎌倉へ参上するよう使者が送られる。重忠は事情を知らぬまま、郎党わずか百三十余騎を率いて菅谷館を発った。六月二十二日、武蔵国二俣川で北条義時率いる大軍と遭遇したとき、ようやく事の真相を悟ったという。
 
 兵力差は圧倒的だった。家臣たちは本拠へ引き返して態勢を立て直すよう進言した。しかし重忠は拒んだ。引き返せば謀反を認めたことになる。無実のまま討たれるより、戦って死ぬ。武士としての面目を守る——その選択だった。激戦はおよそ四時間に及び、重忠は愛甲季隆の矢に倒れ、首級を取られた。四十二歳だった。『愚管抄』は自害だったとも記す。
 
 ここで少し立ち止まってみたい。重忠には、うまく呑まれたふりをして生き延びる道は本当になかったのか。泥をかぶり、病と称して身を隠し、北条方に一時的に媚び、恥を忍んで今日をしのぐ——そういうしぶとさは、当時の鎌倉では珍しくなかった。だが重忠は、それを選ばなかった。いや、選べなかった、と言うほうが近いのかもしれない。自分の名誉の置きどころを、簡単に動かせなかった。武士として「こうあるべきだ」という芯が、あまりにも強すぎた。その芯が彼を折れなくし、同時に救わなかった。
 
 二俣川の最期には、愛馬が傷ついて乗り換えたとか、郎党に守られながら奮戦したとか、最後まで見苦しくなかったといった逸話が残る。どこまでが事実で、どこからが後世の美化かはわからない。ただ、人々がそこに「こうあってほしい畠山重忠像」を重ねたことだけは確かだ。死んだ途端、彼は一人の生身の人間であることをやめさせられ、「武士の鑑」という立派すぎる像へと変えられていった。それは名誉であると同時に、どこか残酷でもある。迷いも、悔しさも、怖れも、情けなさも、すべて削ぎ落とされてしまうからだ。
 
 本当は、怖くなかったはずがない。息子を先に失い、謀反人の汚名を着せられ、勝ち目のない戦いに追い込まれながら、心の底まで隙のない立派さだったとは思えない。むしろ無念で、腹立たしく、やりきれなかったはずである。それでも最後に崩れなかった。立派だから泣かないのではない。泣きたいほど無念だったのに、なお筋を通してしまう。そのどうしようもなさが、畠山重忠という男の悲劇だったのだと思う。
 
 皮肉なことに、重忠を陥れた北条時政自身も長くはもたなかった。事件からわずか一カ月余りで、政子・義時らによって失脚する。人を呑み込んだ側も、また別のうねりに呑み込まれていく。権力とはそういうものだ。
 
 畠山重忠の死は、単なる一人の悲劇ではない。鎌倉という政権が抱えていた病——立派な人間を褒め称えながら、結局は助けないという病——の、早い段階ではっきり現れた症状だった。このあと、同じ病は形を変えながら続いていく。だからこそ、この連載の最初に彼を置きたかった。
 
 「武士の鑑」とは褒め言葉である。だが、ときにそれは、生き残れなかった人間の墓前に供えられる、いちばん残酷な花束にも見える。畠山重忠は、立派だった。だからこそ助からなかった。そしてそのことを、鎌倉という場所の冷たさごと、後世に残した男だったのである。


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