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【応仁の乱を生きた人々】 第2回 日野富子 前編~「決めない夫」の傍らで~

 もし、あの人がもう一言だけ、はっきりと決めてくれていたなら。
 
 日野富子は生涯の終わりに、そんな諦念に近い思いを抱いたかもしれない。
 後世の歴史は彼女を「応仁の乱の元凶」「稀代の悪女」「守銭奴」と厳しく断罪する。敵味方に金を貸し付けて利を貪り、政治を私物化したという悪名は今も根強い。しかし、その「強欲」とされた行動の裏側には、乱世の女性が生き残るために強いられた、冷徹なまでの計算と孤独があったことを、見過ごしてはならない。
 
 富子が八代将軍・足利義政に嫁いだのは享徳4年(1455年)、16歳のときだった。名門・日野家は代々将軍家に正室を送り込んできた家柄であり、この結婚は彼女にとって個人の幸福ではなく、家と自身の地位を守る政治そのものだった。
 夫の義政は優しく、繊細で、美を愛する青年だった。しかし政治の場では、その繊細さが「優柔不断」という致命的な弱点に変わる。大名たちの顔色をうかがい、決定を先送りにし、不都合な現実から目を背ける。
 
 富子は若くして悟った。この夫では、いざという時に誰も守ってくれない。幕府はすでに土一揆が頻発し、守護大名たちが水面下で勢力争いを繰り広げる、崩れやすい砂の城だった。頼るべき将軍が舵を放棄しているのなら、自分が動かなければならない。足利の家と我が身を守るために——それが彼女の現実主義の出発点だった。
   
   呪いと呼ばれた悲劇
 
 富子が最初から冷徹な策士だったわけではない。彼女もまた、傷ついた母の一人だった。
 長禄3年(1459年)、待望の第一子(男子)を出産した。しかしその子は、生まれたその日に息を引き取ってしまう。深い悲しみの最中、都に流れた陰惨な噂が彼女をさらに追い詰めた。義政の乳母で政界に大きな影響力を持っていた今参局(いままいりのつぼね)が、富子の子を呪い殺したというものだ。真偽は定かではない。しかし当時の都では、呪詛は決して笑い話ではなかった。
 
 怒りと哀しみに駆られた富子は、義政に今参局の処罰を強く求めた。義政はここでも明確な裁きを避け、流罪という穏便な処分を選んだが、今参局は護送の途上で自害に追い込まれた。
 この事件は富子に強烈な教訓を刻み込んだ。弱ければ呪われ、消される。将軍家の奥向きの権力争いも、幕府の政争も、力を持たなければ生き残れない——その現実を、彼女は骨身に染みて理解した。
   
   「わが子」という名の戦場
 
 その後も子に恵まれず焦りを募らせる中、夫・義政は独断で弟の義視を還俗させ、後継者に据えてしまった。富子への十分な相談もなく、ただ問題を先送りするかのような決定だった。
 しかし運命は皮肉に回る。その翌年、文正元年(1466年)、富子はついに男子・義尚を出産する。この瞬間から、彼女の人生は大きく動き始めた。
 「この子を守らなければ、殺される」
 すでに後継者として認められている義視と、その背後にいる細川勝元。もし義視が将軍になれば、生まれたばかりの義尚に居場所はない。最悪の場合、命の危険すらある。
 富子は行動を起こした。西国に強大な勢力を持つ山名宗全に自ら使者を送り、我が子の後ろ盾となるよう懇願したのである。
 
 夫が決めないから、妻が動く。夫が秩序を守らないから、妻が味方を探す。
 彼女が取ったこの一手が、細川・山名という二大勢力の対立に火を点けることになる。富子はただ、必死に我が子の未来を守ろうとしただけだった。しかしその母の執念と、その夜、御所の奥で交わされた密約の墨の匂いは、やがて都を焼く炎の匂いへと変わっていく。
 その時、まだ誰も知る由はなかった。
(後編へ続く)


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