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応仁の乱を生きた人々~雪舟 ~京が燃えるなら、大陸(明)へ行くまで

 【応仁の乱を生きた人々】瓦礫の京を捨て、瓦礫の京に立ち、美を紡いだ者たち



 政治が壊れ、人間関係が壊れ、京都という街そのものが炎に包まれていく。


 本編『応仁の乱を生きた人々』で描いてきたのは、権力と欲望の渦の中で破滅へ向かう政治家や武将たちの姿だった。しかし応仁の乱は、単なる「終わりの時代」ではなかった。


 街が焼け、秩序が焼け、権威という建前が焼け落ちたあとに、残ったものがある。そこで初めて「ならば、自分は何を遺すのか」と問わねばならなくなった人々がいた。


 京を離れた者。焼け跡に残った者。芸を磨いた者。言葉を携えて旅した者。権威ではなく、自らの腕一本で生きる道を選んだ者――。


 生き方は違っても、彼らに共通していたのは、壊れた時代の中で「美」を仕事に変えたことである。


 彼らは風雅な隠遁者ではない。乱世の不安と向き合いながら、美を磨くことで生きる場所を切り開いていった人々だった。


 権力者たちが国を壊していたとき、彼らは何を生み出そうとしていたのか。東山文化とは、戦火を忘れて咲いた花ではない。焼け跡の中で、それでも咲こうとした花だった。このシリーズでは、その花を育てた人々を追っていく。

 
~雪舟~

 
 京は、もはや人が未来を託せる場所ではなくなっていた。

 
 応仁の乱は、しばしばそうした時代の裂け目として語られる。

 だが、その裂け目のただ中にありながら、あるいはその裂け目を真正面から見据え、都を背にした男がいた。雪舟である。


 応仁の乱が幕を開ける前後、雪舟は海を渡り、明へ向かった。

 戦乱を避けた、という言葉は簡単すぎる。海を渡るという行為は、当時、文字通り命がけだった。言葉も風土も違う異国へ、身体一つを投げ出す。船旅の危険は言うに及ばず、帰れる保証などどこにもない。それでも雪舟は行った。逃げたのではない。見に行ったのだ。自分の目で、本場の山水を。世界の広さを。日本の外にある美の基準を。


 京がきな臭いから地方へ身を引く、という程度の話ではない。もっと遠くへ、もっと決定的に、自分を投げ出している。そこに、まず雪舟という人間の型破りさがあった。

 帰国後の彼は、焼け跡の京都に執着しなかった。

 都に戻って権威のそばに侍る道を選ばず、地方の大名たちの下を渡り歩いた。周防、豊後、各地の有力者に招かれ、あるいは必要とされながら、彼は筆を休めなかった。ここにもまた、雪舟のしたたかさと現実感覚がある。


 芸術家というと、時代に傷つき、世をはかなみ、廃墟を前に立ち尽くす姿を想像しがちだ。だが雪舟は、そうした感傷に長く浸る人ではなかった。都が壊れたなら、壊れていない場所へ行く。いや、壊れていようがいまいが、自分の描くべきものがある場所へ行く。その身軽さは、冷淡というより、乱世を生き延びる者の鋭い現実感覚に近かった。


 しかも彼が描いたのは、単なる中国風の立派な山水ではなかった。

 明で学んだ様式を深く呑み込んだ上で、日本の山や川、崖や樹木の、湿った土の匂い、空気の重さ、地面のぬかるみへと筆を向けた。輸入された「型」を知った者が、なお日本の自然の癖と向き合う。その眼は、観念より先に、現場を見ていた。


 雪舟は、きれいごとだけでできた文化人ではなかった。

 海を渡る胆力があり、権威に寄りかかりきらない移動力があり、注文主を見つけて生きる現実感覚があり、それでいて筆だけは決して鈍らせない。高雅というより、むしろ泥臭い。東山文化というと、どこか静謐で洗練された、完成された美の世界を思い浮かべてしまう。だがその足元には、こういう汗と潮の匂いのする越境者が確かにいた。


 都が燃えても、絵は終わらない。

 秩序が崩れても、目は風景を探し続ける。

 雪舟とは、乱世に取り残された人ではなく、乱世を横切っていった人だった。

 東山文化は、焼け残った雅ではなく、壊れた世界のあとで、それでも何を美しいと見るかを問い直した人々の仕事だった。雪舟は、その問いを最も早く、自らの足で引き受けた人だった。

 京が燃えるなら、大陸へ行くまで。

 そして帰ってきた彼は、日本という風土そのものを、自分の目でもう一度描き直した。

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