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「犬公方」と言われた男 第4回 赤穂事件と、法に背いた喝采

 人は、正しいだけでは愛されない。

 綱吉の人生ほど、その事実を静かに物語るものはない。学問を重んじ、徳によって世を治めようとし、弱い命を見捨てまいとした。少なくとも出発点において、彼の理想はそういうものだった。だが、理想が法となり、法が人々の暮らしを縛り始めると、綱吉はしだいに「正しいことを言う息苦しい権力者」になっていく。

 
 そして赤穂事件は、その綱吉にとって、もっとも残酷なかたちで突きつけられた問いだったのではないか。法を守ることと、人の胸を打つことは違う。秩序を保つことと、喝采されることも違う。綱吉はその違いを、あの雪の夜に思い知らされたのだと思う。


 発端は、元禄十四年三月の江戸城松の廊下である。

 播磨赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、高家肝煎の吉良上野介義央に斬りかかった。城中での刃傷は、理由のいかんを問わず重罪である。しかも将軍の城のなかで、である。浅野は即日切腹、赤穂藩は改易。処分としては苛烈に見えるが、幕府法の論理からすれば、綱吉にとってそれはむしろ当然の裁断だったろう。

 
 ここで大事なのは、綱吉が冷酷だったかどうかではない。彼にとって、法は感情より先にあるものだった、ということである。どれほど事情があろうと、城中で刃傷に及んだ以上、処分しないわけにはいかない。もしそこを情で曲げれば、将軍が守るべき秩序そのものが揺らぐ。綱吉は、そう考えたのではなかったか。


 この判断は、彼の政治の筋から見れば、むしろ一貫している。綱吉は、暴力の論理を嫌った。私的な感情が、公の秩序を踏み越えることを嫌った。戦国の残り香のようなものを、少しでも江戸から遠ざけたかった。だからこそ、松の廊下の一件もまた、彼には「個人的な激情が公の秩序を破った事件」として映ったはずである。そこに同情の余地がなかったとは言わない。だが、同情で裁きを曲げれば、将軍である自分の足もとが崩れる。綱吉は、そういう立場にいた。


 ところが、歴史はここで終わらない。むしろ、ここからが綱吉にとっての本当の悪夢だった。


 翌元禄十五年十二月十四日夜。

 赤穂浪士四十七人が、吉良邸へ討ち入る。

 主君の仇を討つ。

 この一点だけを抜き出せば、たしかに胸を打つ。雪の夜、亡き主君の無念を晴らすため、命を捨てて敵地へ向かう。日本人が長く愛してきた物語の型が、そこにはほとんど完成されたかたちで揃っている。

 忠義。

 義憤。

 自己犠牲。

 そして死。

 人の心を動かさぬはずがない。


 だが、将軍・綱吉の目に映ったものは、まるで違っていたのではないか。彼にとってそれは、忠義の美談ではなく、法の外で行われた私刑だった。幕府の裁きがすでに下っている。浅野は切腹し、赤穂藩は改易された。そのうえでなお、遺臣たちが徒党を組み、武装し、江戸の屋敷に押し入り、人を殺す。

 それを「忠義だから」と許してしまえば、法は何のためにあるのか。綱吉の目には、あの四十七人は後世が称える忠臣ではなかった。自分が必死に抑え込もうとしてきた暴力が、再び姿を現したように映ったのではなかったか。言い換えれば、秩序への襲撃者である。少なくとも、綱吉の胸のなかでは、そういう冷たい認識があったように思える。


 しかも残酷なのは、その暴力が、たちまち喝采を浴びたことである。人々は泣いた。そして浪士たちを義士と呼んだ。法を守る将軍より、法を破って主君のために死ぬ男たちのほうに、心が動いた。綱吉にとって、これほど堪えることがあっただろうか。


 彼は、何のためにここまでやってきたのか。刀ではなく言葉で世を治めようとし、私的な暴力を抑え、秩序を整え、弱いものが踏みにじられない世をつくろうとしてきたのではなかったか。その努力の果てに、人々がなお熱狂するのは、法ではなく仇討ちだった。秩序ではなく物語だった。将軍の裁断ではなく、雪の夜の討入りだった。綱吉はこのとき、自分が守ろうとしてきた世界が、人々の胸のなかではまだ完成していないことを、いやというほど思い知らされたのではないか。


 ここで綱吉を、単に「忠臣蔵の敵役」として片づけてしまうのは、やはり惜しい。彼は少なくとも、浪士たちの行為を、そのまま忠義の美談として受け入れることはできなかった。とはいえ、幕府もただちに彼らを罪人として斬ったわけではない。処分をめぐって議論を重ね、最後には斬罪ではなく切腹を命じた。そこには、法を守りながらも、浪士たちの忠節を完全には踏みにじれない幕府の迷いがあった。

 情が法を踏み越えることの怖さを、彼は知りすぎていたのではないか。個人の怒り、個人の忠義、個人の正しさ。そういうものが公の秩序を破り始めたとき、世の中はたちまち血なまぐさくなる。綱吉は、それを終わらせたかった。だからこそ、赤穂浪士を美談として受け入れることができなかった。彼にとってあれは、古い時代の亡霊が、喝采とともに蘇る瞬間だったのである。


 もちろん、世間はそうは見ない。人は、法の整合性より、物語の美しさに心を奪われる。しかも綱吉は、すでに生類憐みの令などで人々を息苦しくさせていた。日々の暮らしのなかで鬱屈を抱えた人々にとって、赤穂浪士の討入りは、単なる忠義の物語ではなかったかもしれない。それは、窮屈な秩序に対する、ひそかな喝采でもあったのではないか。法で縛られた世のなかで、法を飛び越えてみせた者たち。綱吉がどれほど秩序を説いても、人の胸の底には、なおそういうものへの憧れが残っていた。

 その瞬間、人々は将軍ではなく浪士たちに拍手を送った。将軍は、そのことに敗れたのである。


 この事件を、綱吉はどんな顔で受け止めたのだろう。怒ったのか。呆れたのか。それとも、深く疲れたのか。

 私は、最後のものがいちばん近いような気がしている。怒りはもちろんあっただろう。だがそれ以上に、自分の言葉が届いていなかったことへの疲労があったのではないか。これほど法を説いても、人はなお血に酔う。これほど秩序を守っても、人はなお物語に泣く。将軍である自分が正しいとしても、その正しさは、人々の胸を打たない。その事実は、綱吉のような理想家にとって、かなり深い絶望だったはずである。


 ここで、母・桂昌院の存在を思わずにはいられない。綱吉にとって母は、ただの生母ではなかった。

 自分の原点であり、弱いものの側に立つ感覚の源でもあった。その母が高い栄誉を受けるようになった時代に、江戸の空気は、綱吉の理想よりも、浪士たちの血の物語に熱狂していく。もし綱吉がそこに、単なる政治的敗北以上のものを感じたとしても不思議ではない。自分が守ろうとしてきたもの。自分が母から受け取った教え。自分が学問によって築こうとした秩序。そのすべてが、人々の喝采の前で、ひどく頼りなく見えたのではなかったか。


 赤穂事件は、綱吉の理想をただ傷つけただけではない。それを孤立させた。法を守る将軍は、正しいかもしれない。だが、正しいだけでは、人はついてこない。綱吉はこのとき、将軍でありながら、ひどくひとりだったのではないか。自分の側にあるのは法である。だが、人々の心は別のところへ流れていく。その寒さは、幼い日に陽の当たらない部屋で味わったものと、どこか似ていたかもしれない。

 輪の外にいる感覚。自分だけが、みんなの熱から取り残されている感覚。将軍になってなお、綱吉はその寒さから逃れられなかったのではないか。


 そして、こういう孤立は、人をさらに硬くする。理解されない理想は、しばしば柔らかさを失う。綱吉の晩年が、どこか張りつめ、疲れ、暗い色を帯びていくのは、赤穂事件のような経験と無関係ではあるまい。優しさは、理解されないまま続くと、しだいに執着へと変わる。

 綱吉の政治が晩年に向かっていっそう息苦しさを増していくのは、そのせいでもあったのではないか。


 後世は、赤穂浪士を義士と呼び、綱吉をその向こう側に置いた。その構図はあまりに鮮やかで、いまも多くの人の頭のなかに残っている。だが、その鮮やかさのぶんだけ、こぼれ落ちたものもある。法を守ろうとした将軍の孤独。暴力の美談化に傷ついた理想家の疲労。正しいのに愛されない者の寒さ。そういうものは、忠臣蔵の拍手のなかで、きれいにかき消されてしまった。


 綱吉は、この夜、敗れたのだと思う。政治的にではない。もっと深いところで。人の心において、敗れたのである。自分が終わらせたかったはずの時代の論理に、人々がなお喝采を送るのを見てしまった。その敗北感は、将軍という地位では埋められない。むしろ将軍だからこそ、誰にも弱音を吐けない。その沈黙のなかで、綱吉の晩年はさらに冷えていったのではないか。


 やがて彼は、母を失い、天災に見舞われ、天からも民からも見放されたような晩年へと入っていく。

 富士の灰が江戸に降るころ、綱吉は何を思っていたのだろう。

 自分の人生は、すべて間違いだったのか。命を守ろうとしたことも、法を守ろうとしたことも、優しい世界を夢見たことも。

 そう問い返した夜が、一度もなかったとは思えない。


 次回、最終回「灰のなかで消えなかったもの」。母の死、富士山の噴火、老い、孤独、そして死後の断罪。

 「犬公方」と呼ばれた男が、どのようにして歴史の敗者となっていったのか。

 その最後の体温を書く。




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