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応仁の乱を生きた人々 第4回 細川勝元 前編

 京都の北山に佇む竜安寺。その石庭の前に立つと、静謐な空間の中に、一滴の無駄もない極限の合理性が息づいているのを感じる。白砂の海に配置された十五の石は、どこから眺めてもすべてを一度に視認することはできない。
 
 この庭を創建した男こそ、応仁の乱で東軍を率いた総大将・細川勝元である。
 勝元は、この石庭のように極めて聡明で、緻密で、無駄を嫌う合理主義者だった。室町幕府の最高職である「管領」を三度務め、二十代で名門・細川家の頂点に立った彼は、誰もが認めるエリートであり、崩壊しかけていた幕府の「秩序の守り手」だった。
 だからこそ、歴史の皮肉は痛烈だ。
 
 誰よりも秩序を愛し、誰よりも聡明だったこの男が、なぜ京都を11年にわたって焼き尽くす大乱の引き金を引いてしまったのか。そこには、のちの幕末に自らの知謀ゆえに誤算へ沈んだ徳川慶喜にも通じる、「有能な男の悲劇」があった。
   
   巨魁との危ういチェスゲーム
 
 細川家は全国に広大な領国を持つ守護大名の筆頭格だった。その巨大な家を維持し、幕府を安定させるため、勝元は常に冷徹な政治的計算を巡らせていた。彼の前に最大の障壁として立ちはだかったのが、西国に圧倒的な武力を誇る山名宗全(赤入道)だった。
 
 勝元は、この野性味あふれる巨魁と真っ向から衝突することを避け、宗全の娘を正室に迎え、宗全の息子を養子にするなど、何重もの婚姻関係を結んで山名家をコントロールしようとした。政治とは一種のチェスゲームだと信じていた彼にとって、婚姻と外交の網を張り巡らせ、バランスを保てば秩序は維持できるはずだった。勝元は自分の知性と細川家の力をもって、この乱世を制御できると信じていた。
   
   狂い出した盤面
 
 しかし、人間の情念は彼の精緻な方程式には収まらなかった。
 畠山家・斯波家の家督争いが泥沼化し、将軍・義政の優柔不断さが火に油を注ぐ。勝元がいくら合理的な調停案を提示しても、大名たちは意地と怨念で刃を交え、日野富子は実子を将軍にするため裏で暗躍した。勝元が最も嫌う「不条理な情念」が、せっかく築いた政治の盤面を揺るがし始めた。
 
 そして最大の誤算は、義父である山名宗全の野心を「御せる」と過信したことだった。
 宗全は勝元の思い通りになるような男ではなかった。細川家が中央で権力を独占し続けることに強い不満を抱いた宗全は、勝元が張った網を破り、反対勢力を糾合して細川包囲網を形成しつつあった。
 「これ以上引けば、細川の家が潰れる」
 秩序を守るためのゲームだったはずが、いつの間にか「家を生き残らせるための戦い」へと変質していた。
 
 勝元は焦った。
 これほど先を読み、手を打ってきた自分が、なぜここまで追い詰められているのか。
 応仁元年(1467年)5月、勝元は決断する。山名軍が京都に完全に集結する前に先制攻撃を仕掛けることを。
 
 彼の手元には、将軍・義政から得た「本軍(東軍)」としての公的な大義名分があった。
 勝元は信じていた。圧倒的な動員力と正統性をもってすれば、この戦いは短期間で決着し、再び自分が秩序を取り戻せると。
 しかし、それこそが——聡明な男の、生涯最大の誤算の始まりだった。
(後編へ続く)


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