「犬公方」と呼ばれた男ーー序章
徳川綱吉と聞いて、好意を抱く人は少ないだろう。
学校で習う彼のイメージは、だいたい決まっている。「生類憐みの令」「赤穂事件」「犬公方」。犬ばかりを可愛がり、人々を苦しめ、忠臣蔵の敵役として記憶される将軍。日本史のなかでも、かなり損な役回りを押しつけられてきた人物の一人だ。
歴史には、悪人として記号化されてしまった人間がいる。そして記号にされたとき、人間は体温を失う。笑ったのか、怯えたのか、誰を愛し、何を恐れ、どんな夜に眠れなかったのか——そうした、生身の人間にとって最も大事なものが、きれいに削ぎ落とされてしまう。
綱吉もまた、そうした一人だったのではないか。
彼は、はじめから権力の中心にいた男ではなかった。
徳川家光の四男として生まれながら、将軍になるはずのない子として育った。兄たちが華やかな光のなかにいる一方で、綱吉は薄暗い場所に置かれた。武芸より学問を与えられ、刀より書物を持たされた。父なりの政治的配慮だったのかもしれない。兄弟間の争いを避けるため、あえて武の道から遠ざけたのだろう。しかし幼い彼にとって、そんな大人の事情はどうでもよかったはずだ。自分だけが、父の求める「武士の子」ではないという事実は、冷たく幼い肌に沁み込んだに違いない。
しかも彼の母・桂昌院は、将軍家の正室でも名門の姫でもなかった。低い身分から大奥に入った女だった。そのことが、母子の居場所をさらに狭くした。綱吉にとって母は、ただの母ではなかっただろう。城の中で同じように「外れ者」としての寒さを知る、唯一の理解者だった。互いにすがるように生きる、ひそやかな母子だったのではないか。
この母の存在は、後の綱吉を考える上で決定的に大きい。
彼は異様なほど「命」にこだわった。犬や猫だけでなく、捨て子、病人、行き倒れ、弱い者、見捨てられた者。そうした命を放っておけない政治を、ひたすら推し進めた。もちろんそれは、結果として人々を息苦しくもした。法は細かくなり、取締りは過剰になり、善意はしばしば窮屈な命令に変わった。
だがその不器用さの根底にあったのは、単なる奇矯な趣味などではない。
傷つけられる側の寒さを、幼いころに知りすぎていたからこそ生まれた、痛々しいまでの執着だったのではないか。
綱吉は刀ではなく書物を与えられた。それは彼の運命を決めた。
武によって人を従わせるのではなく、言葉と教えによって世を変えようとした将軍。戦国の血なまぐさい残り香がまだ漂う時代にあって、それはある意味で真っ当な理想だった。辻斬りや捨て子が日常的に横行する現実を前に、力ではなく徳で世を治めたいと願った。その出発点まで嘲笑うのは、少し酷というものだろう。
ただし、理想は権力を持つと変質する。ここに綱吉の悲劇があった。
優しさは個人の胸に抱いている限り美しい。しかしそれを国家の法に変えた瞬間、それは命令となる。命令になった優しさは、人を救うこともあれば、人を締めつけることもある。
生類憐みの令は、まさにその典型だった。
後世では「犬を可愛がりすぎた愚かな将軍」の象徴とされるが、実際は犬だけの話ではない。捨て子の禁止、病人や弱者の保護、殺生への忌避——仏教的な生命観と儒教的な仁政思想が混ざり合い、そこに綱吉自身の幼い日の疎外感と傷が流れ込んでいた。
彼は本気で「見捨てられる命のない世」を作りたかったのだ。
本気だったからこそ、加減がきかなかった。
人はしばしば、軽薄な者より、真面目すぎる者によって息苦しくさせられる。綱吉は、まさにそういう種類の権力者だった。
彼の人生をさらに複雑にしたのは、柳沢吉保の存在である。
吉保は綱吉の理想を深く理解し、それを現実の制度に変えていく稀有な理解者だった。主従を超えた信頼関係は、綱吉に力を与えたと同時に、理想を加速させすぎる危険も孕んでいた。
そして赤穂事件が起こる。
後世のわれわれは、どうしても「忠臣蔵」の物語を通してこの事件を見てしまう。しかし法を預かる将軍の目には、景色はまったく違って映ったはずだ。
許しがたかったのは、仇討ちの成否ではなく、法の外で流された血が、たちまち世間の熱狂的な喝采を浴びてしまったことだったのではないか。せっかく暴力を抑え、秩序で世を治めようとしてきたのに、人々はまだ法より感情、秩序より物語に熱狂する。
あの討入りは、綱吉にとって「忠義」ではなく、自分が必死に封じ込めようとしてきた暴力の復活に他ならなかっただろう。
晩年の綱吉には、確かに深い暗さがあった。
理想は硬直し、政治は息苦しさを増し、世継ぎにも恵まれず、母・桂昌院の死が決定的な孤独を落とした。さらに宝永の大地震と富士山の噴火。天災は為政者の不徳のしるしと見なされやすい時代だった。灰の降る江戸の空を、綱吉はどのような思いで見上げたのだろう。
優しい世界を作ろうとした男が、誰からも優しい眼で見られなくなる。
その哀しみは、想像するにあまりある。
そして綱吉は死ぬ。
死ねば、もう自分で自分を語ることはできない。あとに残るのは、たいてい勝者の言葉だ。
彼の死後、生類憐みの令は否定され、治世は「行きすぎた悪政」として手際よく整理された。もちろん、現場を疲弊させた政策があったことは事実だろう。だがその過程で、善意と執着、慈悲と統制、知性と孤独を抱えた複雑な人間・綱吉は、あまりにも簡単に切り捨てられてしまった。
ただの「犬公方」という、冷たいあだ名へと。
歴史はときに、人間を便利な記号に単純化する。
だが、便利な悪役にされた人間ほど、掘り返す価値がある。
名君だったのか、暗君だったのか。そんな問い自体が、すでに彼の本質を逃している。
問うべきは、この男はなぜこれほどまでに命にこだわったのか。なぜ優しさをここまで不器用にしか実現できなかったのか。そしてなぜ、死後これほど単純な悪役にされなければならなかったのか、ということだ。
陽の当たらない部屋で書物を抱えていた少年。
母とともに肩身の狭さを知り、弱い者の寒さを骨身に染みた子。
学問と徳で世を変えられると信じた将軍。
理解者を得て理想を加速させ、その理想ゆえに人を息苦しくもした権力者。
そして死後、「犬公方」と笑われた敗者。
そのすべてが、徳川綱吉という人間だった。
冷たいあだ名ひとつで片づけるには、あまりにも人間くさく、哀しく、痛々しい生涯である。
だからこそ、私は書いてみたいと思う。
笑い話や悪政の記号としてではなく、優しい世界を夢見すぎてしまった、一人の不器用な人間として。
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