応仁の乱を生きた人々 第7回 畠山義就 後編
応仁の乱が始まると、畠山義就の強さは際立っていた。
彼は西軍の主力として、東軍の陣地を次々と突破した。洗練された細川勝元の戦術も、義就の野性的な戦い方の前には通用しなかった。相国寺の決戦では、自ら陣頭に立って東軍を壊滅寸前まで追い詰めている。戦場において、義就は文字通り「不敗の男」だった。
しかし、彼が勝てば勝つほど、京都の街は灰になり、平和は遠のいていった。
西軍の総大将・山名宗全が「もうこれ以上は都を破壊できない、勝元と和睦しよう」と弱音を吐くたび、義就は猛烈に反対した。
「政長が管領の座にあり、俺の家督が認められない限り、和睦など絶対に認めん!」
義就にとって、妥協は死を意味していた。彼は一度「不義の身」としてすべてを奪われた恐怖を知っている。だからこそ、完璧な勝利によって相手を叩き潰さなければ、二度と安心して眠ることはできないのだ。
義就のその「引けない無理」もまた、応仁の乱を11年もの泥沼へと引き延ばした大きな要因の一つとなっていった。
誰もいない戦場
文明9年(1477年)、山名宗全も細川勝元も世を去り、誰もが戦いに疲れ果てていた。日野富子の工作によって、西軍の大名たちが次々と京都から撤退していく。
「もう終わりにしよう」
それが都の、そして日本全体の声だった。しかし、義就だけは首を振らなかった。彼は最後まで京都に残り、東軍への攻撃を続けた。
だが、気がつけば周りにはもう誰もいなかった。西軍の仲間すらも彼を置いて国へ帰ってしまい、宿敵の政長も東軍の陣の中に引きこもっている。
義就は、自分が「時代に取り残された野獣」になったことを知った。
彼はフッと笑い、残ったわずかな兵を率いて、静かに京都の街を後にした。略奪も放火もせず、ただ堂々と、自分の足で河内(大阪)の領国へと帰っていったのだ。
彼は戦いには負けていなかった。しかし、時代には完全に敗北していた。
渇いた終焉
領国に帰った後も、義就の戦いは終わらなかった。彼は河内や大和を舞台に、攻め寄せる政長の軍勢を何度も撃退し、地元の国人たちを従え、自らの手で「畠山義就の王国」を維持し続けた。山城の国一揆によって一度は追われても、彼はすぐに這い上がり、その土地を力で支配し直した。
彼は確かに強かった。しかし、その強さは、何のためにあるのか。
かつて彼を愛してくれた父・持国はとうに亡く、共に戦った山名宗全もいない。京都の華やかな文化からも遠ざかり、ただ泥をこねるようにして、地方の小競り合いを続ける日々。
彼の人生は、戦うことそのものが目的になってしまっていたのかもしれない。戦うのをやめれば、自分がなぜ生きているのか分からなくなる——そんな深い孤独が、老いた義就の背中には漂っていた。
延徳2年(1490年)12月、畠山義就は河内の陣中で世を去った。享年54。
宿敵の政長のような華やかな自害ではない。長年の戦傷と病に侵され、文字通り、戦場で行き倒れるような最期だった。
畠山義就という男の無理は、「力」だけを信じ、他者との妥協を一切拒絶したことにある。
しかし、彼をそこまで頑なにしたのは、都の権力者たちの気まぐれな裏切りだった。
手続きの正義に殉じた政長と、実力の正義に命を燃やした義就。どちらにも言い分があり、どちらの人生にも深い歪みがあった。二人が残した血塗られた足跡の先には、何も残らなかったかもしれない。
応仁の乱は、正義と悪の戦いではなかった。法を信じた男と、力を信じた男。その不器用で、誰にも止められなかった執念の熱量こそが、都を焼き、日本を戦国へと向かわせた。
(第8回 後土御門天皇編に続く)
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