見出し画像

チャンドーギヤ・ウパニシャッド第三篇—胸の奥に、太陽はのぼる

太陽は、遠い空だけにあるのではない。
息の中にも、心の中にも、光はひそんでいる。
小さな胸の空に、世界より大きなものが眠る。
それを知る者は、昼を失わない。

第三篇は、太陽から始まります。
けれど、ただ空の太陽を見上げる話ではありません。
太陽の光。
神々の蜜。
人の息。
胸の奥の空間。
そして、そこにあるブラフマン。
この篇は、そういうものを、一本の細い光の糸で結んでいきます。
ブラフマンとは、世界の根にある大きなものです。
神という一語だけでは足りません。
宇宙という一語だけでも足りません。
目には見えないけれど、すべての中にあり、すべてを支えているものです。
プラーナとは、生命の息です。
ただの呼吸ではありません。
見ること、聞くこと、話すこと、考えることを支える、生きる力そのものです。
ガーヤトリーとは、古代インドで大切にされた聖なる詩の形です。
この篇では、それが言葉となり、大地となり、身体となり、心となります。
ヴェーダとは、古代インドの聖なる知です。
リグ・ヴェーダは、神々への讃歌。
ヤジュル・ヴェーダは、祭りの言葉と作法。
サーマ・ヴェーダは、歌われる祈り。
アタルヴァ・ヴェーダは、呪法や暮らしの祈りを多く含む知です。
この篇では、ヴェーダの詩句が蜂にたとえられます。
祭りは花です。
そこから蜜が生まれます。
その蜜の精は、太陽へとのぼります。
そして、太陽の赤い光、白い光、黒い光、深い黒い光、中心の光となって、世界へ返ってきます。
祈りは、空へ消えて終わるのではありません。
歌は、どこか遠くへ流れて失われるのではありません。
人が祈る。
神々がよろこぶ。
太陽が光る。
世界が生きる。
そういう大きな循環が、ここにはあります。
この篇の半ばから、教えは外の太陽を離れ、内なる光へ向かいます。
太陽がのぼり、沈む。
それは、ふつうの目にはそう見えます。
けれど、さらに高いところへ行くと、太陽はもうのぼりません。
沈みもしません。
中心に立ち、ただ光っています。
それを知る者には、永遠の昼がある。
この篇は、そう言います。
そして、その光は、胸の奥へ入っていきます。
心の中に、空間がある。
その空間は、外の空間と同じである。
そこにあるものが、ブラフマンである。
米つぶより小さい。
からし種より小さい。
それなのに、大地よりも大きい。
空よりも大きい。
天よりも大きい。
この逆説が、第三篇の美しいところです。
人の内にあるものは、小さい。
けれど、それは世界よりも大きい。
人の一生も、ここでは祭りとして見られます。
若い時期は、朝の供えもの。
中年は、昼の供えもの。
晩年は、夕べの供えもの。
飢えも、渇きも、楽しみも、笑いも、病も、死も、祭りの一部です。
生きることは、ばらばらの出来事ではありません。
一つの大きな儀式です。
この篇を読むとき、カタカナの言葉に引っかかりすぎると、すぐに迷います。
けれど、真ん中にある考えは、澄んでいます。
太陽は、外にある光である。
息は、内にある命である。
心の奥には、小さな空がある。
その空は、宇宙の空と同じである。
人の中には、宇宙がある。
胸の奥には、太陽と同じ光がある。
第三篇は、そういう話です。


THIRD PRAPÂTHAKA.
FIRST KHANDA.
第三篇
第一章
太陽は、神々の蜜である。
古い教えは、そう語ります。
天は、横に渡された梁のように広がっています。
空は、そこから下がる蜂の巣です。
明るいもやは、その中に眠る蜂の卵です。
そして、太陽の東の光は、蜜の部屋です。
リクの詩句は、蜂です。
リグ・ヴェーダの祭りは、花です。
祭りでそそがれる水は、その花の蜜です。
蜂が花をあたためるように、リクの詩句たちは、祭りという花を深くあたためます。
すると、そこから蜜の精が生まれます。
名声。
顔の輝き。
勢い。
力。
すこやかさ。
その精は、静かに流れ出します。
そして、太陽へとのぼっていきます。
それが、朝にのぼる太陽の赤い光となるのです。
朝焼けは、ただの色ではありません。
祈りの花から集められた、神々の蜜の色です。

SECOND KHANDA.
第二章
太陽の南の光もまた、蜜の部屋です。
こちらには、ヤジュスの詩句が蜂のように集まります。
ヤジュル・ヴェーダの祭りは、花です。
そこへそそがれる水は、花の蜜です。
詩句たちは、花をあたためます。
祭りの声が、見えない熱を持ちます。
そこからまた、蜜の精が生まれます。
名声。
顔の輝き。
勢い。
力。
すこやかさ。
それは太陽へとのぼり、白い光となります。
白い光は、静かな祭りの精です。
声を整え、手順を守り、神々へ向けて差し出された祈りが、光になったものです。

THIRD KHANDA.
第三章
太陽の西の光は、後ろにある蜜の部屋です。
そこでは、サーマンの詩句が蜂です。
サーマ・ヴェーダの祭りが花です。
水は、その花の蜜です。
サーマンは、歌われる祈りです。
ただ唱えるのではありません。
声が波のように揺れ、空へ伸びていきます。
その歌が、祭りの花をあたためます。
そこから、蜜の精が生まれます。
名声。
顔の輝き。
勢い。
力。
すこやかさ。
その精は太陽へ向かい、黒い光となります。
黒い光というと、少し不思議に聞こえます。
けれど、夜の前の西の空には、明るさと暗さが重なっています。
沈みゆく光の奥にも、蜜はあるのです。

FOURTH KHANDA.
第四章
太陽の北の光は、左にある蜜の部屋です。
そこでは、アタルヴァーンギラスの讃歌が蜂です。
イティハーサ・プラーナ、つまり古い物語を読むことが花です。
水は、その花の蜜です。
古い物語もまた、ただの昔話ではありません。
人がなぜ生きるのか。
神々はどこにいるのか。
世界はどうしてこの形をしているのか。
そういう問いを、物語は静かに抱いています。
その物語の花を、讃歌たちがあたためます。
すると、また蜜の精が生まれます。
名声。
顔の輝き。
勢い。
力。
すこやかさ。
その精は太陽へとのぼり、もっとも深い黒い光となります。
深い黒は、失われた光ではありません。
光がさらに奥へ沈み、沈黙の中で濃くなった色です。

FIFTH KHANDA.
第五章
太陽の上へ向かう光は、上にある蜜の部屋です。
そこでは、秘密の教えが蜂です。
ブラフマン、すなわちオームが花です。
水は、その花の蜜です。
オームは、すべての言葉の根にある音です。
声になる前の声。
祈りになる前の祈り。
秘密の教えたちは、その花をあたためます。
すると、蜜の精が生まれます。
名声。
顔の輝き。
明るさ。
勢い。
力。
すこやかさ。
その精は太陽へとのぼり、太陽の中心で動いているように見える光となります。
太陽の色は、精の中の精です。
ヴェーダは精です。
そして、ヴェーダから生まれて太陽へとのぼる光は、さらにその精です。
蜜の中の蜜。
古い教えは、そう呼びます。

SIXTH KHANDA.
第六章
第一の蜜、赤い光によって、ヴァスたちは生きています。
ヴァスとは、世界に住まわせる力を持つ神々です。
その先頭には、アグニ、すなわち火がいます。
神々は、人のように食べたり飲んだりしません。
ただ、その蜜を見ることで、よろこびます。
神々は赤い光の中へ入り、またそこからのぼり出ます。
神々の食事は、そのようなものです。
この蜜を知る人は、アグニを先頭とするヴァスたちの一人となります。
その人もまた、蜜を見てよろこびます。
赤い色の中へ入り、またそこからのぼり出ます。
太陽が東からのぼり、西へ沈むかぎり、その人はヴァスたちの王としての力にあずかります。
朝の赤い光は、神々の門です。
それを知る者は、ただ朝を見るのではありません。
赤い蜜の中に、火の神々の息を見るのです。

SEVENTH KHANDA.
第七章
第二の蜜、白い光によって、ルドラたちは生きています。
ルドラとは、荒々しく、痛みや泣き声にも近い神々です。
その先頭には、インドラがいます。
神々は、食べません。
飲みません。
ただ、その蜜を見て、よろこびます。
神々は白い光の中へ入り、またそこからのぼり出ます。
この蜜を知る人は、インドラを先頭とするルドラたちの一人となります。
その人もまた、蜜を見てよろこびます。
白い色の中へ入り、またそこからのぼり出ます。
太陽が東からのぼり、西へ沈むあいだの二倍のあいだ、太陽は南からのぼり、北へ沈むと語られます。
そのあいだ、その人はルドラたちの王としての力にあずかります。
ここで語られる太陽は、ふつうの空の動きだけではありません。
それは、神々の時間を進む太陽です。
人の一日より、もっと大きな一日です。

EIGHTH KHANDA.
第八章
第三の蜜、黒い光によって、アーディティヤたちは生きています。
アーディティヤとは、太陽的な神々です。
その先頭には、ヴァルナがいます。
神々は、食べません。
飲みません。
ただ、その蜜を見て、よろこびます。
神々は黒い光の中へ入り、またそこからのぼり出ます。
この蜜を知る人は、ヴァルナを先頭とするアーディティヤたちの一人となります。
その人もまた、蜜を見てよろこびます。
黒い色の中へ入り、またそこからのぼり出ます。
そして、太陽が南からのぼり、北へ沈むあいだの二倍のあいだ、太陽は西からのぼり、東へ沈むと語られます。
そのあいだ、その人はアーディティヤたちの王としての力にあずかります。
黒い光は、ただ暗いのではありません。
見える光の奥へ入った光です。

NINTH KHANDA.
第九章
第四の蜜、もっとも深い黒い光によって、マルトたちは生きています。
マルトとは、風や嵐に近い神々です。
その先頭には、ソーマがいます。
神々は、食べません。
飲みません。
ただ、その蜜を見て、よろこびます。
神々は深い黒い光の中へ入り、またそこからのぼり出ます。
この蜜を知る人は、ソーマを先頭とするマルトたちの一人となります。
その人もまた、蜜を見てよろこびます。
深い黒の中へ入り、またそこからのぼり出ます。
そして、太陽が西からのぼり、東へ沈むあいだの二倍のあいだ、太陽は北からのぼり、南へ沈むと語られます。
そのあいだ、その人はマルトたちの王としての力にあずかります。
嵐の神々も、光の蜜によって生きています。
風の奥にも、太陽の精があるのです。

TENTH KHANDA.
第十章
第五の蜜によって、サーディヤたちは生きています。
サーディヤとは、高い天の世界に属する神々です。
その先頭には、ブラフマンがいます。
神々は、食べません。
飲みません。
ただ、その蜜を見て、よろこびます。
神々はその色の中へ入り、またそこからのぼり出ます。
この蜜を知る人は、ブラフマンを先頭とするサーディヤたちの一人となります。
その人もまた、蜜を見てよろこびます。
その色の中へ入り、またそこからのぼり出ます。
太陽が北からのぼり、南へ沈むあいだの二倍のあいだ、太陽は上へとのぼり、下へ沈むと語られます。
そのあいだ、その人はサーディヤたちの王としての力にあずかります。
太陽の道は、ここでさらに高くなります。
東西南北を越え、上下へ向かいます。
光は、世界の外へ出ようとしているようです。

ELEVENTH KHANDA.
第十一章
そこから、さらに上へとのぼったとき、太陽はもう、のぼりません。
沈みもしません。
ただひとり、中心に立っています。
古い詩は、こう言います。
あちらでは、太陽はどんな時にも、のぼらない。
沈まない。
もしこれが真実でないなら、神々よ、わたしはブラフマンを失ってもよい。
それほどまでに、この教えは強く語られます。
このブラフマ・ウパニシャッド、すなわちヴェーダの秘密の教えを知る人にとって、太陽はのぼりません。
太陽は沈みません。
その人にとっては、一度きりの永遠の昼があります。
この教えは、ヒラニヤガルバとも呼ばれるブラフマンから、プラジャーパティへ伝えられました。
プラジャーパティは、マヌへ伝えました。
マヌは、その子孫たちへ伝えました。
そして父は、この教えをウッダーラカ・アールニへ伝えました。
だから父は、この教えを長男に伝えてよい。
また、ふさわしい弟子に伝えてよい。
けれど、それ以外の者には、語ってはならない。
たとえ、海に囲まれた大地をすべて宝で満たして差し出されても、語ってはならない。
この教えは、それよりも価値があるからです。
沈まない太陽を見ることは、世界の宝よりも重いのです。

TWELFTH KHANDA.
第十二章
ガーヤトリーの詩句は、この世にあるものすべてです。
なぜなら、ガーヤトリーは言葉だからです。
言葉は、世界にあるものを歌い出します。
そして、それを守ります。
そのガーヤトリーは、大地でもあります。
なぜなら、すべてのものは大地の上にとどまり、大地を越えて行かないからです。
その大地は、人の身体でもあります。
なぜなら、生命の息たちは身体の中にとどまり、そこを越えて行かないからです。
その身体は、心でもあります。
なぜなら、生命の息たちは心の中にもとどまるからです。
言葉。
大地。
身体。
心。
それらは、別々に見えて、同じ形を持っています。
ガーヤトリーには、四つの足があり、六つの姿があります。
そして、古い詩はこう語ります。
この大きさは、たしかに大きい。
けれど、プルシャ、すなわち人なるものは、それよりもさらに大きい。
その一つの足が、すべてのものです。
残り三つの足を持つ不死のものは、天にあります。
ここで語られるブラフマンは、遠いどこかにだけあるのではありません。
外の空間と同じものが、内にもあります。
内にある空間とは、心の中の空間です。
その心の空間は、ブラフマンです。
どこにでもあり、変わることがありません。
このことを知る人は、どこにでもある、ゆるぎない幸せを得ます。
小さな胸の中に、広い空があります。
その空は、外の空とつながっています。

THIRTEENTH KHANDA.
第十三章
心には、神々に属する五つの門があります。
それは、感覚の門です。
東の門は、プラーナです。
上へ向かう生命の息です。
それは目であり、アーディティヤ、すなわち太陽です。
人はそれを、明るい輝きと、すこやかさとして思うがよい。
このことを知る人は、明るく輝き、すこやかになります。
南の門は、ヴィヤーナです。
広がってゆく息です。
それは耳であり、月です。
人はそれを、幸せと名声として思うがよい。
このことを知る人は、幸せになり、名声を得ます。
西の門は、アパーナです。
下へ向かう息です。
それは言葉であり、アグニ、すなわち火です。
人はそれを、顔の輝きと、すこやかさとして思うがよい。
このことを知る人は、顔に輝きを持ち、すこやかになります。
北の門は、サマーナです。
内側で整える息です。
それは心であり、パルジャニヤ、すなわち雨の神です。
人はそれを、人に知られることと、美しさとして思うがよい。
このことを知る人は、人に知られ、美しくなります。
上の門は、ウダーナです。
外へ出てゆく息です。
それは風であり、空間です。
人はそれを、力と大きさとして思うがよい。
このことを知る人は、力強くなり、大きな者となります。
この五つは、ブラフマンに属する五つの者です。
天の世界、スヴァルガの門番です。
この五つの者を、天の門番として知る人には、その家に力強い息子が生まれます。
そして、その人自身も、天の世界に入ります。
さらに、天の上には光があります。
すべてより高く、あらゆるものより高く、その先には、もうほかの世界がないところにある光です。
その光は、人の内にある光と同じです。
それには、しるしがあります。
身体の中にある温かさを、手で触れて感じること。
また、耳をふさいだとき、内側に響く音を聞くこと。
車が遠くでごろごろ進むような音。
牛が低く鳴くような音。
火が静かに燃えるような音。
それは、目に見え、耳に聞こえるブラフマンです。
このことを知る人は、人目を引く者となり、人に知られる者となります。
外の光は、内にあります。
内の音は、遠い天へつながっています。

FOURTEENTH KHANDA.
第十四章
このすべては、ブラフマンです。
人は、この目に見える世界を、ブラフマンから始まり、ブラフマンの中で息づき、ブラフマンの中で終わるものとして思うがよい。
人は、心に思うものによってできています。
この世で、その人の思いがどのようであるか。
この命を去ったあと、その人は、その思いのようになります。
だから、その人は、深く思い、深く信じるがよい。
それは、知をそなえています。
その身体は霊であり、姿は光であり、思いは真実であり、本性は空間のようです。
どこにでもありながら、目には見えません。
すべての行い、すべての願い、すべてのよい香り、すべての味が、そこから出てきます。
それは、このすべてを包みこみます。
それは、けっして語りません。
そして、けっして驚きません。
それは、わたしの心の内にある自己です。
米つぶよりも小さい。
麦のつぶよりも小さい。
からし種よりも小さい。
小さな種の中身よりも小さい。
そして、それはまた、わたしの心の内にある自己です。
大地よりも大きい。
空よりも大きい。
天よりも大きい。
すべての世界よりも大きい。
すべての行い、すべての願い、すべてのよい香り、すべての味は、そこから出てきます。
それは、このすべてを包みこみます。
それは、けっして語りません。
そして、けっして驚きません。
それこそが、わたしの心の内にある自己です。
それが、ブラフマンです。
わたしがここから去るとき、わたしはそれを得るでしょう。
この信を持つ人には、疑いがありません。
シャンディリヤは、このように語りました。
小さいものの中に、大きなものがある。
沈黙しているものの中に、すべての願いがある。
胸の奥は、狭くありません。
そこには、世界より大きな空があります。

FIFTEENTH KHANDA.
第十五章
この世界は、朽ちることのない箱のようです。
空が、まわりのふちです。
大地が、底です。
方角が、側面です。
天が、上のふたです。
その箱は、宝の蔵です。
すべてのものは、その中にあります。
東の方角は、ジュフーと呼ばれます。
南の方角は、サハマーナーと呼ばれます。
西の方角は、ラージニーと呼ばれます。
北の方角は、スブフーターと呼ばれます。
それらの方角の子は、ヴァーユ、すなわち風です。
風こそが、方角の子です。
このことを知る人は、自分の息子たちのことで泣かない、と言われます。
その人は、こう祈ります。
わたしは、風が方角の子であると知っている。
どうか、わが子たちのことで、わたしが泣くことのありませんように。
わが子の命のために、わたしは、朽ちることのない箱へ身を寄せる。
わが子の命のために、わたしは、プラーナ、すなわち生命へ身を寄せる。
わが子の命のために、わたしは、ブーフへ身を寄せる。
わが子の命のために、わたしは、ブヴァハへ身を寄せる。
わが子の命のために、わたしは、スヴァハへ身を寄せる。
プラーナへ向かうとは、この世にあるすべてへ向かうことです。
ブーフへ向かうとは、大地と空と天へ向かうことです。
ブヴァハへ向かうとは、火と風と太陽へ向かうことです。
スヴァハへ向かうとは、リグ・ヴェーダとヤジュル・ヴェーダとサーマ・ヴェーダへ向かうことです。
それが、わたしの言ったことです。
そうです。
それが、わたしの言ったことです。
世界は、朽ちることのない箱です。
風は、方角から生まれ、命をめぐらせます。
命は、その箱の中で守られています。

SIXTEENTH KHANDA.
第十六章
人は、祭りです。
その最初の二十四年は、朝の供えものです。
ガーヤトリーには、二十四の音節があります。
朝の供えものは、ガーヤトリーの讃歌によってささげられます。
この時期には、ヴァスたちが結びついています。
プラーナたち、すなわち生命の息と感覚のはたらきは、ヴァスたちです。
なぜなら、それらは、このすべてを住まわせるからです。
もし若い時期に病むことがあれば、その人はこう祈ります。
プラーナたちよ。
ヴァスたちよ。
このわたしの朝の供えものを、昼の供えものまでのばしてください。
わたしという祭る者が、プラーナたち、ヴァスたちの中で、途中で滅びることのありませんように。
このようにして、その人は病から回復し、元どおりになります。
次の四十四年は、昼の供えものです。
トリシュトゥブには、四十四の音節があります。
昼の供えものは、トリシュトゥブの讃歌によってささげられます。
この時期には、ルドラたちが結びついています。
プラーナたちは、ルドラたちです。
なぜなら、それらは、このすべてのものを泣かせるからです。
もしその時期に病むことがあれば、その人はこう祈ります。
プラーナたちよ。
ルドラたちよ。
このわたしの昼の供えものを、第三の供えものまでのばしてください。
わたしという祭る者が、プラーナたち、ルドラたちの中で、途中で滅びることのありませんように。
このようにして、その人は病から回復し、元どおりになります。
次の四十八年は、第三の供えものです。
ジャガティーには、四十八の音節があります。
第三の供えものは、ジャガティーの讃歌によってささげられます。
この時期には、アーディティヤたちが結びついています。
プラーナたちは、アーディティヤたちです。
なぜなら、それらは、このすべてを取り上げるからです。
もし晩年に病むことがあれば、その人はこう祈ります。
プラーナたちよ。
アーディティヤたちよ。
このわたしの第三の供えものを、満ちた寿命までのばしてください。
わたしという祭る者が、プラーナたち、アーディティヤたちの中で、途中で滅びることのありませんように。
このようにして、その人は病から回復し、元どおりになります。
マヒダーサ・アイタレーヤは、このことを知っていました。
彼は病に向かって言いました。
どうして、おまえはわたしを苦しめるのか。
わたしは、それによって死ぬことはないのに。
彼は、百十六年生きました。
二十四年、四十四年、四十八年を合わせた、満ちた祭りの年数です。
このことを知る人もまた、百十六年まで生きると語られます。
人生は、ただ時間が過ぎることではありません。
朝の火があり、昼の火があり、夕べの火があります。
人は、その火の中を歩いていく祭りなのです。

SEVENTEENTH KHANDA.
第十七章
人が、祭る者として飢え、渇き、楽しみをひかえるとき、それはディークシャーです。
ディークシャーとは、祭りに入るための清めの儀式です。
人が食べ、飲み、楽しみを味わうとき、それはウパサッドとともにあることです。
ウパサッドとは、祭る者が食べることを許される、祭りの日々です。
人が笑い、食べ、自分を楽しませるとき、それはストゥタ・シャストラとともにあることです。
ストゥタ・シャストラとは、祭りで歌われ、となえられる讃歌です。
苦行。
施し。
正しさ。
やさしさ。
まこと。
これらが、その人のダクシナーです。
ダクシナーとは、祭司たちに与える贈りものです。
人々が、「生まれるだろう」「生まれた」と言うとき、それは新しい生まれです。
それは、ソーマ祭で「彼はソーマの汁をそそぐだろう」「彼はソーマの汁をそそいだ」と言うことに重ねられます。
そして、人の死は、アヴァブリタです。
祭りの器を運び去り、最後に清める儀式です。
ゴーラ・アーンギラサは、この祭りとしての人生の見方を、デーヴァキーの子クリシュナに伝えました。
クリシュナは、そのあと、ほかの知識を求めて渇くことがなくなりました。
ゴーラ・アーンギラサは、こう言いました。
人は、自分の終わりが近づいたとき、この三つに身を寄せるがよい。
あなたは、朽ちることのないものである。
あなたは、変わることのないものである。
あなたは、プラーナ、すなわち生命の息の、もっとも鋭い端である。
そして、古い詩は光を歌います。
人々は、自分の内に、いつもそこにある光を見る。
それは、サット、すなわち存在という世界のもとの光です。
もっとも高いものであり、輝くブラフマンの中で灯されている。
また、こう歌われます。
無知の闇の上に、さらに高い光を見る。
神々の中にある、明るい光と命の源を見る。
わたしたちは、もっとも高い光にたどりついた。
そうです。
もっとも高い光に、たどりついたのです。
飢えも、食事も、笑いも、死も、祭りの外にはありません。
すべては、光へ向かう道の一部です。

EIGHTEENTH KHANDA.
第十八章
人は、心をブラフマンとして思うがよい。
これは、身体についての教えです。
人は、空間をブラフマンとして思うがよい。
これは、神々についての教えです。
こうして、身体に関する瞑想と、神々に関する瞑想とが、ともに教えられます。
ブラフマン、すなわち心には、四つの足があります。
言葉。
息。
目。
耳。
ここまでは、身体の側から見た四つです。
つぎに、神々の側から見ます。
アグニ、すなわち火。
ヴァーユ、すなわち風。
アーディティヤ、すなわち太陽。
方角。
このようにして、身体の礼拝と、神々の礼拝が重ねられます。
言葉は、ブラフマンの四分の一です。
その足は、火を光として輝き、あたためます。
このことを知る人は、名声と顔の輝きによって、光を放ち、熱を帯びます。
息は、ブラフマンの四分の一です。
その足は、風を光として輝き、あたためます。
このことを知る人は、名声と顔の輝きによって、光を放ち、熱を帯びます。
目は、ブラフマンの四分の一です。
その足は、太陽を光として輝き、あたためます。
このことを知る人は、名声と顔の輝きによって、光を放ち、熱を帯びます。
耳は、ブラフマンの四分の一です。
その足は、方角を光として輝き、あたためます。
このことを知る人は、名声と顔の輝きによって、光を放ち、熱を帯びます。
言葉は火へつながります。
息は風へつながります。
目は太陽へつながります。
耳は方角へつながります。
身体の中に、世界の四方が開いています。

NINETEENTH KHANDA.
第十九章
アーディティヤ、すなわち太陽は、ブラフマンです。
これが、その教えです。
さらに詳しく語るなら、こうです。
はじめに、これはまだ存在していませんでした。
それは、存在するものとなりました。
それは、大きくなりました。
それは、卵となりました。
その卵は、一年のあいだ横たわっていました。
静かな卵です。
けれど、その中では、世界が育っていました。
やがて、卵は割れて開きました。
二つに分かれた殻のうち、一方は銀でした。
もう一方は金でした。
銀の殻は、この大地となりました。
金の殻は、空となりました。
白身の厚い膜は、山々となりました。
黄身の薄い膜は、霧と雲となりました。
細い筋は、川となりました。
中の液は、海となりました。
そして、その卵から生まれたもの。
それが、アーディティヤ、すなわち太陽でした。
太陽が生まれたとき、よろこびの声が起こりました。
すべての生きものが起こりました。
それらが望むものすべても、起こりました。
だから今も、太陽がのぼるとき、よろこびの声が起こります。
太陽が沈むときにも、世界は大きく動きます。
すべての生きものが起こります。
望まれるものも、また起こります。
このことを知り、太陽をブラフマンとして思う人がいるなら、心地よいよろこびの声が、その人のもとへ近づいてきます。
そして、その声は続きます。
そうです。
続くのです。
太陽は、空に生まれた光です。
けれど、その光は、胸の奥にも生まれます。
世界の卵が割れたとき、太陽が出ました。
人の心が静かに開くときも、そこに小さな太陽がのぼります。
そして、その太陽は、もう沈みません。

いいなと思ったら応援しよう!

タオ ここまで読んでくださり、ありがとうございます。 古い言葉を、今の人にも届く形で残していきたいと思っています。 応援していただけたら、とても励みになります。