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【創作大賞作品・短編小説】手ざわりと濁り

Story
伊勢神宮を訪れた帰り道、男は名古屋で二十年前に別れた女性と再会する。遠距離恋愛の末、自らの弱さから彼女を手放した過去。春のやわらかな空気の中で、ふたりは大学時代の思い出や、それぞれが抱えてきた孤独を静かに語り合う。取り戻せない時間を知りながらも、触れたぬくもりだけは確かに残っていた。後悔と優しさが滲む、大人たちの再会の物語。



第一章 あの春の手ざわり (二日間の密やかな再会)


四月の伊勢は、まだ少し肌寒かった。
桜はほとんど葉桜になっていて、それでもところどころに
薄い花びらが残っている。

参道の砂利を踏むたびに、しゃり、しゃりと乾いた音がした。
空気はひんやりしているのに、どこか湿り気もある。
胸の奥を、細い糸で軽く引っぱられているような、ぴんとした
緊張を感じた。

鳥居をくぐるたび、自然と背筋が伸びる。
まわりの人の話し声はあるのに、不思議と遠くに聞こえた。

内宮の正殿は、思っていた以上に、簡素だった。
飾り気がない。
線も面も、ぎりぎりまで削られている。それでも、足りないとは
思わなかった。
その前に立つと、自分のほうの余計なものばかりが目についた。
言わなかった言葉とか、楽なほうに流れた選び方とか。ここでは、
そういうものがやけに浮いて見えた。

手を合わせながら、男はいろんなことを順番に思い出していた。
仕事のこと。離婚のこと。子供のこと。これから先のこと。

そのどれとも違うところから、不意に、名古屋の街と、あのころ隣を
歩いていた女の顔が浮かんだ。
今日、伊勢からの帰りに名古屋へ回り、そこで一泊する予定は、
旅程を組むときから決めていた。
そして、数日前から、その夜の予定もひとつ、決まっていた。
あの人と、夕食を一緒にとる。

     *

伊勢市駅から名古屋行きの特急に乗り込んだあと、男はスマートフォンを
取り出した。
画面には、数日前の短いやり取りが残っている。

〈来週、伊勢に行く。帰りに名古屋に一泊するんだけど、よかったらその日の夜、ごはんでも〉

送信ボタンを押す前に、三度は文章を消していた。
「久しぶり」を入れるかどうか、「迷惑じゃなければ」を足すかどうか。
結局、削って、また足して、また削って、今の形に落ち着いた。

返事は、拍子抜けするくらいあっさりしていた。

〈いいね、伊勢。いいよ。食事しよう。名古屋メシ久しぶりでしょう。〉

その一文を、男は何度も読み返した。
絵文字も、余計な一言もない。
けれど、「来てもいい」と言われたように感じた。

四月の午後の陽射しが、少し傾き始めている。
窓の外では、田んぼや住宅地が後ろへ流れていく。
桜並木は、どこも淡い若葉に変わりつつあった。

伊勢の社殿の、すべてを削ぎ落としたような佇まいを思い出す。
それに比べて、自分のこれまでの言い方や逃げ方は、やけに飾りが多かった。

あのとき、本当のことを言わなかったこと。
楽なほうに流れたこと。
それでも、ずっと好きだったこと。

名古屋に近づくにつれて、胸の中の音が大きくなっていった。

     *

名古屋駅に着くころには、空はすっかり夕方の色だった。
ホームに降り立つと、伊勢の砂利道とはまったく違う、人のざわめきと機械音が迎える。

駅ビルのガラスに映る空は、薄いオレンジから群青へと変わりかけている。
風はまだ少し冷たいが、吐く息が白くなるほどではない。

ホテルは駅から歩いて十分ほどの、ビジネスホテルだった。
チェックインを済ませ、部屋の鍵を受け取る。
エレベーターの中の自分の顔が、少しこわばっているのが分かった。

部屋に入ると、カーテンを少し開けた。
二十年ぶりの街は、どこか見慣れなかった。

ベッドの端に腰を下ろし、スマートフォンの画面をつける。
時刻は、待ち合わせの四十分前。

〈着いた。またあとで〉

そう打ち込み、送信する。
ほどなくして、画面の横に小さな「既読」がついた。

〈はやいね。ゆっくり来てね〉

すぐに返ってきたメッセージを見て、男は胸の奥が少し軽くなるのを感じた。

洗面所で顔を洗い、タオルで押さえるように拭く。
ワイシャツの襟を指で整え、ネクタイを締めるか迷った末に、やめた。
少しだけきちんとして見えるジャケットを羽織る。

鏡に映る自分は、昔より少し痩せて見えた。
髪に混じる白いものも、ごまかしきれない。

それでも、伊勢の森の中で吸い込んだ空気を思い出すと、今日ここに来て、
彼女に会うこと自体が、自分なりの「けじめ」なのだと感じられた。

     *

待ち合わせの店は、駅から少し離れた落ち着いた居酒屋だった。
春の夜の風は、昼間よりやわらかくなっているが、ジャケットの前を閉めてちょうどいい。

店に向かう道を歩きながら、男は何度も歩調を調整した。
早足になると、息が浅くなる。
ゆっくり歩きすぎると、考えごとばかり増えていく。

信号待ちで立ち止まり、空を見上げる。
街灯の光に負けて、星はほとんど見えない。
それでも、どこかでさっきまで伊勢の上にあった空と、つながっているような気がした。

店の看板が見えたところで、一度立ち止まる。
胸の内側が、どくん、と大きく鳴った。

深く息を吸い、ゆっくり吐く。
内宮の正殿の前で、手を合わせる前にしたのと同じ呼吸だった。

「よし」

自分にだけ聞こえる声でそう言って、男は暖簾をくぐった。

その先で女が振り向き、「久しぶり」と笑うところから、名古屋の夜が始まった。

     *

最初に浮かんだ感想は、「あまり変わっていない」だった。
もちろん、お互いに歳をとった。髪にも肌にも時間の跡がある。
それでも、笑ったときの目元のしわの寄り方や、グラスを持つ手つきは、男の記憶の中の彼女と地続きだった。

「久しぶり」

「本当にね」

それだけで、しばらく言葉が続かなかった。

やがて、近況を少しずつ話し始めた。
東京の暮らしのこと、離婚のこと。
女が夫を亡くしたことも、そのうちに出てきた。

「もう何年になるんだ?」

「三年。最初の一年は、何してたかあんまり覚えてないんだよね」

女はさらりと言い、グラスのビールをひと口飲んだ。

「あなたは? 離婚してどのくらい?」

「五年」

「そっか」

「子供は」

「娘、いま高二」

「早いな」

「気づいたら、って感じ」

「手、かかる?」

「かかるよ。まあ、ほとんど一人で回してるけど」

「……そっか」

「そっちは?」

「似たようなもんだな」

「今って、ひとりでやってる感じ?」

「うん、まあね」

「そっか。誰かと一緒に、とかは?」

「あんまり、考えようともしてなかったかも」

料理が運ばれ、昔話が少しずつ混ざり始める。
大学のキャンパス、ごちゃごちゃした本屋、安い居酒屋、深夜のファミレス。

「明日さ、時間ある?」

「特に予定はないよ。なつかしさに任せて、大学のあたり、少し歩いてみようかと思ってた」

「じゃあ、少しだけ付き合うよ」

     *

翌日。
春の光は少しやわらかく、街路樹の若葉が透けて見えていた。

女の運転する車で、ふたりは男の母校へ向かった。
キャンパスの門は少し新しくなっていたが、校舎の並びや、ゆるい坂の感触はほとんど変わっていない。

「ここ、試験終わったあと来てさ、徹夜明けでずっと話してたよね」

女の案内で、高台の小さな公園に着く。
街を見下ろせるベンチに並んで座ると、四月の風が頬をなでた。

「覚えてる」

男は、目の前の景色よりも、隣の横顔のほうを意識していた。

「将来どんな仕事をやりたいとか、何歳で結婚したいとか。結局どっちも予定どおりになってないけどね」

「そうだな」

笑いあったあと、少しだけ沈黙が落ちる。

「でも、あなた、本当に東京行っちゃったもんね」

女は前を向いたまま言う。

「ホントは名古屋に残りたくて、本社こっちの会社に就職したんだ。
まさかの東京支店への配属だったよ。でもあのときは、君が背中押したんだよ」

「押したねえ。『若いうちに東京にいくべきだって』って。内心は、残ってほしかったけどさ」

「言わなかったよね、それ」

「言わなかったよ。かっこ悪いと思ってた」

 女は肩をすくめて笑う。

「それに、外に出たほうがいいんじゃないかなって思ってた。ここで完結するの、もったいないなって」

そのやりとりのうちに、昔の空気が少しずつ戻ってくる。
けれど、そこに二十年以上の空白が、確かに横たわっていることも、ふたりともよく分かっていた。

ここで女が少しだけ息を吸ってから、男を見た。
「ねえ、そっちは今、どういう感じなの、そういうの」
男は少し間を置いて、「どうなんだろうな」と言った。
しばらく見つめ合ったあと、視線をそらした。

「……遠距離、よく続いたよな」

男が言うと、女はうなずいた。

「月一が限界だったね。 でも…途中で、ちょっとだけ不安になってたよ」

「不安?」

「うん。東京で、新しい人たちといるあなたと、こっちにいる私と。
そのうち、私は『前からいる人』って枠にはめこまれるんじゃないかなって」

女は足もとを見つめる。

「直接は言わなかったけどね。言ったら、重いかなって思って」

「何度かさ、こっちで君の職場の同僚と飲んだことあっただろ。」

「覚えてるよ」

「やたら君に話しかけてくるイケメンがいたよね」

女は少しだけ笑った。

「いたねー」

「何もないとわかっていても、あれちょっときつかったよ。言わなかったけどね」

「お互い様だったってわけね」

男は、ベンチの縁を指先でなぞりながら、言葉を探した。

「さっきさ」

「途中まで話しかけて、やめたろ。あれの続き、言ってもいい?」

「うん」

女は前を向いたまま、軽くうなずいた。

男は一度、深く息を吸った。

「遠距離、七年目くらいから、正直きつくなってきててさ」

「うん」

「仕事もきつくて、東京での暮らしにも慣れてきて。
あっちの友だちと飲んだり、休日にふらっと出かけたりするのが、普通になってきて」

自分の言葉を、自分でたどるように話す。

「そういう中に、よく一緒に飲みにいく女の子がいた。
向こうがどうこうっていうより、俺のほうが、だんだん『あっちの生活』に
逃げていったんだと思う」

女は黙って聞いている。

「最初は、『名古屋に彼女がいる』ってちゃんと言ってた。
でも、そのうち、あんまり言わなくなって。言わないほうが、楽になっていった」

男はベンチの背もたれによりかかった。

「あるとき、ふたりで飲んで、そのまま…そういう関係になった。
その子には、迷いがなかった。でも、結局、最後にうなずいたのは自分だって分かってる」

風が少し強く吹き、若葉のついた枝が揺れた。

「それから、その子は『彼氏』として扱ってきて、友だちにもそう紹介してた。」

男は、少しだけ笑う。

何回か、「違うな」って思ったこともあった。
でも、そのたびに、見ないふりをした。

女の指先が、膝の上でわずかに動いた。

「でも、その間も、君のことはずっと好きだった。名古屋に向かうたびに、
『ここに戻りたい』って本気で思ってた」

「ふうん」

女はそれだけ言う。

「東京に戻ると、その気持ちを自分で押し込めてた。『もう約束しちゃったし』『今さら全部壊せないし』って。本当は、壊さなきゃいけなかったのに」

男ははっきりそう言った。

「結局、俺は、いちばん楽なほうを選んだ。その場で一番大切な選択じゃなくて、いちばん波風立たなさそうなほうに流れた」

少し間をおいて続ける。

「で、『結婚しよう』って言ったんだ。その瞬間に、君に正直に話す道を、自分でつぶした」

女は小さく息を吐いた。

「それで、私には『仕事が忙しくて』とか言って、だんだん距離置いて…」

「そう。最後は、『続けていく自信がない』なんて、一番、理由になってない理由で終わらせた」

     *

男は、女のほうを見る。

「本当に好きだったのは、ずっと君だった。でも、ちゃんと向き合うことから逃げてた。目の前の楽なほうを選んだのは、全部、俺だ」

しばらく、ふたりとも黙っていた。

四月の夕暮れの光が、街の建物の輪郭をやわらかく縁どる。

先に口を開いたのは、女だった。

「その人が悪いとかじゃないんだね」

静かな声だった。

「うん。向こうは向こうで、本気だったんだと思う。悪かったのは、どっちつかずでいた俺だよ。まぁ、結局離婚したんだけどね。」

女は、ふっと笑った。

「らしいね」

「らしいな」

男も、自嘲気味に笑う。

「今の話、三十代で聞いてたら、たぶんもっと腹立ってたと思う」

「だろうな」

「今も、正直あんまりかっこいいとは思わないけど」

「思われたい話じゃないしね」

「でも…」

女は前を向いたまま、少しだけ目を細めた。

「『なんとなく終わっちゃった』って思ってたままよりは、ずっといい」

男は横顔を見つめる。

「ちゃんと、あなたの弱さで終わったんだなって分かったから」

女はそこで、男のほうを向いた。

「聞けて、よかったよ」

笑っているのに、目の奥が少し赤い。

男は、小さくうなずいた。

「ごめん」

「うん。今のは、ちゃんと『ごめん』って聞こえた」

高台の公園に、春の風が一度だけ強く吹いた。
木々がざわめき、街に灯りがともり始める。

ふたりはしばらく黙って、その景色を眺めていた。

     *

夕方、ふたりは公園をあとにして、駅へ向かった。
女の運転する車は、地下鉄の入り口が見えるロータリーに滑り込むように止まる。

エンジンを切ると、外のざわめきが車内にじわりと入り込んできた。
タクシーの走行音、信号の音、階段を上り下りする人の足音。

「着いたね」

「着いたな」

男はシートベルトを外しながら言う。

「今日はありがと。案内してくれて、助かったよ」

「こっちこそ。久しぶりに、いろいろ思い出せて楽しかった」

女は明るく笑った。
きちんとここで終わりにするつもりの笑顔だと、男には分かった。

「また、元気で」

「うん。そっちもね」

それで終わるはずだった。

男がドアを開け、外の空気を吸い込む。
地下から吹き上がってくる冷たい風の気配が、頬をかすめた。

車を降りてドアを閉め、助手席側から運転席を見る。

「送ってくれて、ありがとう」

「どういたしまして」

窓越しに交わす言葉も、もうこれで十分だった。

「じゃあ」

女が言いかけて、いったん口を閉じる。
代わりに、小さく息を吐いた。

「ちょっとだけ降りるね」

そう言ってドアを開け、ロータリーに出てくる。
街灯の光の下で見ると、彼女は思っていたよりも少しだけ華奢に見えた。

地下鉄の入り口までは、数十歩。
ふたりは並んで、その手前まで歩く。

「ここでいいよ」

階段のいち段目の前で、女が立ち止まる。

地下からの空気が、ふたりの足もとをかすめていく。
人の流れは絶えず、誰も彼らを気にとめない。

「本当に、ありがとう」

男がそう言うと、女はまた笑った。
さっきよりも、少しだけ力の抜けた笑い方だった。

「じゃあ、行って」

「……ああ」

男が階段へ足を向けかけた、そのときだった。

「ねえ」

小さな声が背中を引きとめる。

振り返ると、女がそこに立っていた。
さっきと同じ場所、さっきと同じ距離。
ただ、目の奥だけに、さっきはなかった揺れがある。

一拍の間。

女は視線を落とし、バッグの持ち手をきゅっと握った。

「最後に、一個だけ、お願いしていい?」

男は黙ってうなずいた。

女は、ほんの少しだけ顔を上げる。

「なでなでして」

冗談みたいな言い方だった。
けれど、笑ってはいなかった。

昔、落ち込んだときに、同じ言葉を口にして頭を差し出してきた彼女の姿が、男の中によみがえる。

男は一歩近づき、右手をそっと伸ばす。
女の頭の上に手のひらを置く。

ゆっくりと、二度、三度。
髪の上から、やさしくなでる。

女は目を閉じた。
肩に少し力が入ったあと、ふっと抜けた。

もう一度、ゆっくりとなでる。

そのまま手を離せば、それで終わりだった。
 
男は、手を止めきれなかった。

指先に、ほんのわずかに力が入る。
そのまま、女の頭を自分のほうへ引き寄せた。

もう片方の腕が、自然に女の背中に回る。

女の額が、男の胸に当たる。
ジャケット越しに伝わる体温が、思っていたよりもずっとあたたかい。

女の手は宙に浮いたままだったが、やがて、男の袖口を軽くつまんだ。
ぎゅっと抱きしめるでもなく、離れもしない、中途半端な力で。

言葉は、どちらからも出てこない。

地下から吹き上がる風が、ふたりの間を抜けていく。
周りの足音やアナウンスが、遠くの音のように聞こえた。

どれくらいそうしていただろうか。
先に動いたのは、女だった。

男の袖から指を離し、胸から顔を離す。
一歩だけ後ろに下がる。

「……ありがと」

小さな声で、それだけ言う。

目の端が少し赤い。
それでも、女は笑っていた。

「じゃあ、ほんとに行って」

今度は、冗談めかした調子だった。

男はうなずき、階段へ向き直る。
一段目に足を下ろす前に、もう一度だけ振り返ると、女が手を軽く振っていた。

男も同じように手を上げ、それから地下へ降りていった。

     *

階段を下りながら、男は胸ポケットの内側に、さっきの抱擁の感触がまだ残っているような気がした。

改札の向こうから、電車のブレーキ音が響く。
男は足を止めずに歩きながら、心の中で彼女の名前をつぶやいた。

地上では、女がしばらく階段の上に立ち尽くしていた。
人の流れが途切れた瞬間、彼女は自分の頭のてっぺんにそっと指先を当てる。

そこに残るあたたかさを確かめるように、ひとつ息を吐いた。

「ばか」

小さく、笑いながらつぶやく。

それから踵を返し、四月の夜気の中へ歩き出した。
ロータリーの明かりが、若葉のついた街路樹の影を長く伸ばしている。


第二章 聖域の濁り (守るべきそれぞれの現実)


名古屋から地下鉄で三十分ほど離れた住宅街の一軒家のリビングで、僕は三十年前に捨てた女の娘に口を開いた。

「君のお母さんとはね、大学生の頃から十年間、ずっと一緒にいたんだ。……友人というよりも、もっと親密な関係だったと思うよ」

 リビングの柔らかな光の中で、僕は静かに語りかけた。
対面に座るリナは、スマホを握ったまま表情を変えない。

「三十年前、僕は自分の身勝手なわがままから、他の女性を好きになってしまったんだ。
それが一時の『誘惑』に過ぎないと気づくこともできず、お互いの欠けたピースを補い合える関係だと信じていたはずのお母さんに、一方的に別れを告げた。

二人で行った楽しいはずの動物園の帰りだった。彼女は泣くのを我慢して顔をそむけたが、その背中がひどく震えていたのを今も覚えている。
僕は彼女を置き去りにしたまま、新しい生活へと逃げ出したんだ。
あの日、僕は彼女の心を一方的に壊した」

 高校生の娘に聞かせるには、あまりに醜く、重すぎる告白だということは分かっていた。
それでも僕は、嘘でごまかしたまま彼女の前に立ち続けることだけは、どうしてもできなかった。

「許してほしいなんて、とてもじゃないけど言えない。僕に壊されたあとの彼女が、どれほど冷え切った絶望の中にいたか。そして、僕と別れてわずか半年という時間で出会った君のお父さんと、彼女がすぐに結婚したと知
った時、僕は最低なことを考えた。

それは僕への当てつけなんじゃないか、とね。そう思わなければ、自分の罪悪感に押し潰されそうだったんだ。けれど、君のお父さんがどれほ
ど深い慈しみで彼女の心を温め直したかを想像すると、僕は自分がしたことの重さに、そして二度と彼女を取り戻せないという事実に、ようやく絶望することができたんだ。
その救いのなさに、どこかで安堵さえしていた」

 だから今、こうして彼女の前に顔を出している自分を、僕は誰よりも軽蔑している。
彼女はなぜ僕を拒絶しなかったのか。

「お母さんは、とても強い人だ。お父さんが亡くなってからの五年間、深い悲しみを抱えながら、君を育てるためにたった一人で戦い抜いてきた。
お父さんのことを心から愛していたからこそ、お母さんは誰にも弱音を吐け
なかったんだと思う。

立派な妻として、強い母親として振る舞うことで、お父さんが遺し
てくれた聖域を守ろうとしてきたんだね。
けれど、夜、一人でソファに沈んでいる時、ふと『あぁ、疲れたな……』って、本音が漏れてしまう瞬間がある」

 そんな時、お母さんが必要としたのは、自分を心配してくれる友人でも、励ましてくれる同僚でもなかった。

「僕は、お母さんを裏切ったひどい人間だ。でもね、だからこそ、彼女は僕の前でだけは『立派な人』でいる必要がないんだよ。
僕ほど彼女の純粋で頑なな様子を知っている人間は他にいないし、僕以上に彼女に軽蔑されるべき人間もいない。
お母さんにとって僕は、お父さんとの綺麗な思い出を汚すことなく、
ただ泥のように疲れた自分を沈められる、静かな泥濘のような場所だったんだと思う。

そこで『よく頑張ったね、とても悲しかったね』と、抱きしめて欲しかっただけなんだと思う。
僕はただ、お母さんがふとした時に心を委ねられる相手でありたい。
お母さんのこれまでの五年間を……僕が誘惑に負けて傍にいられ
なかった三十年という歳月を、今度こそ逃げずに、隣で一緒に受け止めていきたいんだ」

 お母さんは僕のことを『変わらず優しい。甘えることが出来る』と言ってくれる。

かつて彼女を壊した男が、三十年経ってもまだ、自分を最も知る者としてそこに立っているという、残酷なまでの安心感なんだろう。

そして僕は、お母さんの心の震えやその温度を、鼻の奥が覚えているんだ。前に『あなたの優しさは、あなたのためのものだったんだね』って、言われたことがあるんだ。

でもお母さんと僕の間には、優しさを分かり合える関係がある。
……一方的に与えているわけじゃないんだよ。
彼女に頼られることで、僕の心も救われている。それが、僕にとっての勝手な救いなんだ。

これは、僕たち二人の間でしか成り立たない『お互い様』なんだよ。
三十年ぶりに再会したときに確信したんだ」

 僕は一度言葉を切り、目の前の瞳を真っ直ぐに見つめた。
あまりに重すぎる願いだと自覚しながらも、僕は話さずにはいられなかっ
た。

「君が来年、この家を出て遠い国で自分の道を切り拓いている間、お母さんが独りで震えないように。
僕は今度こそ、お母さんがいちばん頼りやすいキョリで、ただ隣にいてずっ
と見ていたいんだ」

 リビングにはしばらくの間、重い沈黙が流れた。
リナはスマホに視線を落としたまま、微動だにしない。
やがて一度だけ短く息を吐くと、顔を上げずに言った。

「そう」

 たった二文字。
温度のない、突き放すような響きだった。
彼女はスマホをテーブルに置くと、ようやく僕を正面から見た。
その瞳には、僕を値踏みするような鋭さと、割り切れない苛立ちが混ざっている。

「で、私に何をして欲しいの」

 真っ直ぐな問いだった。僕は呼吸を整え、言葉を返した。

「何かして欲しいわけじゃないんだ。ただ理解して欲しい。君のことを心から思っているお母さんに、休める場所が必要なことを」

 彼女は何も答えず、椅子を引いて立ち上がった。
僕を一度も見ることなく、自分のスマホを掴むと、そのまま階段の方へと去っていき、ステップに片足を乗せたところで、振り返った。

「お母さんのためじゃない。お前のためだろ」

 二階からドアの閉まる音が聞こえ、家の中は再び、ひどく重い静寂に包まれた。

ソファにかけられたままの萌黄色のカーディガンは、母親のものだろう。
僕はそこにそっと触れてみた。しっとりと濡れたような感触に、思わ
ず手を引いた。
 テーブルの上には、濁った水のように冷めきったコーヒーが放置されていた。
 僕はそれを一口啜った。舌の上には、救いようのない苦みが広がった。


第三章 彼女に送らなかった手紙 (男の一ヵ月後の日常)


 明日の弁当のおかずをどうしようかと考えながら、ハイボールを一口すすった。
グラスの中で氷がゆっくりと溶けていく。

最近卵焼きが続いていることは分かっていた。ゆかりを入れたり、昆布茶を入れたり味に工夫を施しているが、結局は卵焼きだ。娘が飽きているかもしれないなと思った。

ふと彼女も娘の弁当を作っていることに気づいた。明日は何をおかずにするのだろうと考える。

そして、今何をしているのだろうと思う。ふと声が聞きたくなる。
名古屋では二日間あれだけ長い時間を共にしたのだ。電話ぐらい構わないよな。と思い。
でも、出来ないよなとも思う。事前にラインしてからならいいか。でも止めるか。と悩む。

ハイボールのグラスが空いた。今晩は少しだけアルコールの量が増えそうだ。

──そうやって、送るあてのないメッセージを頭の中で何度も消しては書き直しているうちに、また夜が更けていく。

4月に会ってから、ずっと胸が微かに痛い感じが続いています。
何か約束したわけでもないし、かといってもう会わないと決めたわけでもないのに。
ずっと心が揺れている感じがします。

初日に夕食を共にしたときはとても緊張していて、久しぶりの”名古屋メシ”それもフルコースだったのにあまり喉を通らなかったよ。

手持ち無沙汰で、普段よりたくさんお酒を飲んでしまったことはばれてたかな。

翌日は早い時間から、念願だった熱田神宮をゆっくり参拝したね。
大きな鶏が放し飼いになっており、その立ち姿が美しかった。

前日に行った伊勢神宮とは異なり、名古屋の街中にあるにもかかわらず、神聖な雰囲気に包まれた気持ちの整う神社だったね。
後で知ったけど、祀られている神様は伊勢と同じらしいよ。

その後に学生時代の思い出の地まで連れて行ってくれたね。
30年以上ぶりの大学のキャンパスは、あまり変わってなかった。

君とは大学は違ったけど、学祭なんかのイベントの時には一緒に出掛けたね。
そうそうアン・ルイスのコンサートに一緒に行ったことを思い出したよ。
「マイネームイズウーマン♪」って一緒に歌ったね。

そして、自分の住んでいた学生マンションへ。だいぶ古くなっていたけど、変わらず今も学生たちが生活している様子が見て取れた。

当時は毎日のように仕事帰りに寄ってくれたね。
大したものじゃないけど、晩御飯をよく一緒に食べたよね。

今から思うと、社会人になりたての君には新たな環境での不安や悩みも多くあったんだと思う。

そんな中、学生時代と変わらず毎日僕に会いに来てくれた。
それを当たり前だと思っていた自分がとても恥ずかしいし、驕っていたのかもしれないと思うと申し訳ないとの思いです。

感謝してもしきれないほどなのに。
今さらながら本当にありがとうと伝えたいです。

そのあとも、学生の頃一緒に行った牧場で馬や牛をみたり。道の駅(これは最近できたんだね)で買い物したり、自分にとっては、懐かしい場所をめぐる当時いつも一緒にいた君とのデートでした。

そして、岩崎城址公園から日進の街を見下ろしながらの懐かし話が良かったね。
僕も会ったことのある君の友人たちの近況を聞けて楽しかった。
なんとなく覚えているものだね。

その当時のことを思い出して、ああ彼女たちも、普通に生活して、時々君と会って、また戻っていくのだと当たり前のことを思ったよ。

その後地下鉄の赤池駅まで送ってくれたね。
僕は、ちょっと別れがたくて、でもどうにもできなくて、それで少しモジモジしながら「ありがとう、じゃまた」と挨拶した。君も「じゃあ、気を付けてね」と言った。

少しのあいだ見つめ合って、君は何かを決めた様子で「ねえお願いしていい」と、僕は「もちろんいいよ」と答えた。

「なでなでして」って。少し困惑しながらも僕は優しく頭をなで、そして身体が勝手に君を抱きしめてた。

そして抱きしめた時に、僕のあごの下に君の頭がすっぽりとおさまり、ふっと懐かしい匂いが鼻の奥の方をかすめた。これで完全に打ちのめされた。

正直その後の別れをあまり憶えていない。
きっと、「ありがと、じゃあね」と君が言って、「こちらこそありがとう、じゃあ」と別れたんじゃないかな。

地下鉄に乗っても、新幹線に乗っても、ずっと君のことを考えていた。

そしてもう直ぐ、君と会ってそして別れてから、1ヵ月になる。
今は何とか君に会えないか、東京の地の利を生かし、君が好きな歌手のコンサートがないか、好きな美術展がないか、と口実を必死に探している。


エピローグ 送らなかった手紙の返事 (三十年分の、一瞬)


あのときのことを、そんなふうに憶えていてくれたんだね。
少し意外で、でも正直うれしく読みました。

四月の名古屋の二日間、私にとっても悪くない時間でした。
初日の夕食で、あなたがやたらお酒ばかり飲んでたのは、緊張していたからだろうなと見ていました。
名古屋メシの味は、私はちゃんと覚えています。

熱田神宮も、キャンパスも、あのマンションも、久しぶりに一緒に歩けてよかったです。
学生のころ、仕事帰りに通っていた自分のことも、あなたにそういうふうに見られていたのかと、少しだけ驚きました。
当時の私は、ただあの部屋の灯りを見るとほっとして、そこに行きたかっただけだったのです。

岩崎城址公園から街を眺めて話した友人たちの近況も、よく憶えています。
「みんな普通に生活して、時々会って、また戻っていく」という言葉は、その通りだと思いました。
今の私たちも、その中の一組なんだろうなと。

赤池駅でのことも、忘れてはいません。
あなたが少し言いにくそうに「ありがとう、じゃまた」と言った顔も、
私が「なでなでして」と口にした瞬間の、妙な静けさも。
あのとき抱きしめられたことは、三十年分の距離を一瞬だけ戻した出来事として、ちゃんとしまってあります。
あの一瞬だけは、今の生活も年齢も全部横に置いて、昔の私たちに戻っていたと思います。

昔のことをここまで丁寧に振り返って、
そのうえで「ありがとう」と言葉にしてくれたことには、素直に感謝します。
あのころの時間も、先日の二日間も、私の中では大事な記憶です。

ただ、今はお互いに、それぞれの生活があります。
あなたが弁当のおかずを考えている姿は、少し想像できます。
その日常を、どうか大事にしていてください。

この手紙に、私から改めて返す言葉は一つだけです。

こちらこそ、ありがとう。

それだけで、十分だと思っています。

(了)

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