〈自律分散する国〉第2回|閣議決定―「決める力」はどこまで集中してよいのか
前回はこう書いて終えました。国会が細部の隅々までを決めていないのなら、その先を決めているのは誰か。答えは、行政です。副首都法もまた、その基本方針を閣議決定で定めるとしていました。
今回は、その行政の意思決定の要である、閣議決定を見てみたいと思います。
最初に、断っておきたいことがあります。私は、閣議決定を悪者にするつもりはありません。政府が意思を一つにまとめなければ、行政は前に進めません。省庁がそれぞれ勝手な方針で動く政府など、誰も望まないはずです。問題は、閣議決定という仕組みそのものにあるのではなく、「国会が決めるべき原則」と「行政が決めるべき実施」の境界が、どこにあるのか、という点にあります。
閣議とは何か―慣行としての全会一致
まず、基礎から確かめます。
閣議は、内閣がその意思を決定するための会議です。ここで重要なのは、閣議の議決方法が全会一致であるというルールは、内閣法のどこにも明文で定められていない、ということです。これは、戦前から積み重ねられてきた慣行です。前回、与党の事前審査を「慣行であって制度ではない」と書きましたが、閣議の全会一致原則もまた、同じ性質を持っています。
では、その慣行を支える理屈は何か。しばしば挙げられるのが、内閣法第1条2項の「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う」という規定です。内閣が国会に対して一つの塊として責任を負う以上、内閣の中で意見が割れたままでは、その責任の負いようがない。だから内閣は、一つにまとまって決める必要がある―全会一致は、この理念を支えるための慣行として、理解されています。
ただ、私はこの「全会一致」という言葉に、少し落ち着かないものを感じます。全員が賛成する、と聞くと、十分に議論を重ね、全員が心から納得した末の合意のように響きます。けれど、本当に、いつもそうなのでしょうか。
ここで思い出しておきたいのが、憲法第68条2項です。「内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる」。任意に、つまり理由の制約なく、総理は大臣をいつでも辞めさせられる。この規定は、戦前、閣内の意見の不一致が内閣を倒す手段に使われた反省から、新しく設けられたものだと説明されます。
すると、全会一致の景色は少し変わってきます。閣議で最後まで署名を拒む大臣がいれば、その決定は成立しません。ですから、そのとき大臣に残された道は、事実上、辞めるか、罷免されるか、の二つです。
現実に、それは起きています。2005年、郵政民営化をめぐる衆議院の解散を決める閣議で、島村宜伸農林水産大臣が署名を拒みました。小泉純一郎首相は、その場で島村氏を罷免し、自ら農水相を兼ねて署名し、解散を決めました。2010年にも、普天間基地の移設方針をめぐって署名を拒んだ福島瑞穂大臣が、鳩山由紀夫首相によって罷免されています。
つまり全会一致は、必ずしも、全員がそろって心から頷いた結果ではありません。反対すれば閣外へ、という力が背後にあるからこそ、表向きは一致する―そういう側面も、確かに持っているのです。もちろん、閣僚どうしが真剣に議論を尽くし、納得して一致する場面もあるでしょう。私は、すべての閣議決定が強いられた一致だと言いたいのではありません。ただ、「全会一致だから、みなが納得している」とは、必ずしも言えない。その響きのよさを、そのまま信頼してよいわけではなさそうだ―そのことは、書き留めておきたいのです。
そして、閣議決定それ自体は、行政府の内部における意思決定にすぎません。閣議決定という行為だけで、新たに国民の権利や義務が生まれるわけではないのです。ここは、正確に踏まえておきたいところです。
けれど、実態はもう少し複雑です。予算案も、国会に提出する法案も、政府の基本方針も、まずは閣議決定によって確定します。国会での審議に先立って、政府としての中身は、すでに閣議決定という形で固まっている。つまり、閣議決定自体が国民を直接に拘束しなくても、政策の方向づけは、国会よりも先に、閣議決定で先行して起きているのです。
「基本方針」が先に固まる―安保三文書とGXの例
この「先行」が、具体的にどう起きるのか。二つの例を見てみます。
まず一つは、2022年12月16日に閣議決定された、いわゆる「安保三文書」です。ここで、反撃能力の保有や、防衛費の対GDP比2%という方針が示されました。これらは、その後の関連法整備に先立って、政府としての基本方針が閣議決定されたものです。
もう一つは、同じ2022年の12月22日に閣議決定された、GX(グリーントランスフォーメーション)実現に向けた基本方針です。ここでは、原発の建て替えを進め、運転期間を60年を超えて延長できるようにする、という方針転換が示されました。これを具体化する関連法、いわゆるGX脱炭素電源法が国会で成立したのは、2023年5月のことです。つまり、方針そのものは前年末の閣議決定で先に固まっており、法律はその後を追う形になっています。
私は、ここでこれらの政策そのものの是非を論じたいのではありません。反撃能力を持つべきか、原発をどう扱うべきか、それぞれに重い論点があり、賛否は分かれるでしょう。ここで考えたいのは、その中身ではなく、決め方の「型」です。国のかたちを左右するような大きな方針が、国会での審議に先立って、まず閣議決定という形で固まる。そして、副首都法もまた、同じ型を採っています。第9条で、基本方針は閣議決定で定めると書かれているのです。
安全保障、エネルギー、そして国のかたちを変えるかもしれない副首都―分野はまったく違うのに、方針を先に閣議決定で固め、法整備や国会論議がそれを追いかける、という同じ構造が繰り返されている。これは、たまたまではなく、私たちの国が政策を形づくるときの、一つの型なのだと思います。
委任の連鎖―「選挙で勝った」から「あとは任せた」まで
なぜ、この型が成り立つのでしょうか。そこには、一本の連鎖があるように思います。
選挙で勝った。だから民意を得た。だから、あとは政府に任せる―。
この連鎖は、一見すると自然に見えます。選挙は民主主義の土台ですし、勝った側が政権を担うのは当然です。けれど、この連鎖のどこかに、飛躍が紛れ込んでいないでしょうか。「選挙で勝った」ことと、「個別の政策の中身にまで白紙委任を受けた」ことは、本当に同じことなのでしょうか。
多数派主義―「勝った側が、全部決めてよい」のか
ここを、もう少し掘ってみます。
政治学に、多数派主義(マジョリタリアニズム)という言葉があります。多数決で多数を取った側が、いわばすべてを決めてよい、少数派の声や、権力を抑えるための仕組みは二の次でよい、とする発想です。多数決は、民主主義に欠かせません。けれど、多数を取ったことが、そのまま「すべてを任された」ことになるのかは、別の問題です。
この発想の底には、複雑なはずの民意を、「国民の意思はこうだ」という、単一で均質な塊に圧縮してしまう癖があるように思います。実際には、民意はひとつの声ではありません。同じ人でも、ある政策には賛成し、別の政策には反対する。賛成の理由も、人によって違います。その多様さを、選挙の勝ち負けという一本の線に押し込めて、「これが国民の意思だ」と語るとき、私たちは何か大切なものを、取りこぼしていないでしょうか。
副首都に置き換えて考えてみます。「東京への一極集中は危険だから、首都機能を分散すべきだ」という理念に、賛成する人は多いでしょう。私自身、そう思います。けれど、その理念に賛成した人が、特定の地域への巨額の投資や、特定のインフラの整備、あるいは都市の統治構造そのものの組み替えにまで、すべて賛成しているとは限りません。理念への同意と、個別の政策への同意のあいだには、本来、いくつもの分岐があるはずなのです。
そしてもう一つ。「選挙で勝ったのだから、あとは任された」という論理は、選挙を、これからの政策をともに考えるための出発点としてではなく、勝った側にその後の判断を白紙で預ける儀式のように、扱ってしまいます。民意は、政策形成の入口であって、以後の丁寧な検討を省略してよい許可証ではありません。複雑な民意を、ひとつの「国民の意思」に圧縮し、それを根拠に「あとは任せた」のだと決め込む―そのとき、行政の内部で、政策の核心そのものが、国会の審議を待たずに固まっていく。それが、閣議決定の先行という現象を、下支えしているのではないでしょうか。
生態系のレンズ―階層は、指揮系統ではない
ここで、これまでと同じように、生態系のレンズを当ててみます。繰り返しになりますが、このレンズは何かを証明するものではなく、あくまで問いの立て方を貸してくれるものとして使います。
生態系にも、階層があります。個体、個体群、群集、生態系全体―それぞれの階層は、確かに入れ子になっています。けれど、上位の階層が、下位の一つひとつの個体に、逐一指令を出しているわけではありません。むしろ、それぞれの階層で、自律的な調整が働いています。個々の生物は、自分の置かれた環境の中で、自分なりに反応し、適応する。そして、その積み重ねが、より大きな階層のふるまいを形づくる。同時に、上位の階層で起きた変化―たとえば気候の変動や資源の枯渇―は、下位の階層にも影響を与え、個々の適応の仕方を変えていきます。情報は、上から下へ一方通行に流れるのではなく、階層のあいだを行き来しているのです。
これを国家に置き換えると、一つの問いが浮かんできます。私たちの統治の仕組みは、上位の階層(政府)が下位の階層(現場、地域、個々の国民)を逐一指揮する、トップダウンの構造になってはいないでしょうか。閣議決定によって基本方針が固まり、それが上から下へ降りていく。もし本当に、生態系のような自律分散の仕組みがあるなら、各階層がそれぞれの持ち場で自律的に判断し、かつ、その判断の材料となる情報が、階層を越えて絶えず行き来する、そんな仕組みも描けるはずです。国家にも、同じような設計はできないものでしょうか。
私は、まだその答えを持っていません。ただ、この問いはしっかり考えるべきだと思いますので、このまま先に持ち越したいと思います。
それでも、まだ「かたち」の話にすぎない
ここまで見てきたのは、閣議決定という仕組みの「かたち」でした。方針が国会に先立って固まること。閣議の全会一致が、罷免という力に支えられていること。そして、「選挙で勝った」が「すべてを任された」へと、すり替わりやすいこと。
けれど、仕組みのかたち以上に、私が気にかかっていることがあります。それは、この閣議決定という仕組みが、近年、どのように「使われて」きたか、です。方向を決めるための道具であったはずのものが、いつのまにか、議論そのものを終わらせるための道具になってはいないか。次回、その具体的な場面を見ていきたいと思います。
次回予告
第3回「閣議決定は、いつ『議論を終わらせる道具』になったのか」。2014年、政府は憲法解釈の変更を、国会での改正手続きではなく、閣議決定で行いました。いわゆる解釈改憲です。また、国会議員が政府に出す質問への答弁書も、実はすべて閣議決定を経ています。方向を定めるための閣議決定が、議論に幕を引くために使われるとき、何が起きるのか。具体的な出来事を手がかりに、一緒に考えます。
この連載は、読者の皆さまとの対話を通じて発展させていくことを意図しています。ご意見・ご感想を歓迎します。
初出:2026年8月4日
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