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荷物が増えたのは、社会に適応するためだった

大人になるにつれて、荷物が多いタイプになった。
振り返ってみてどうしてそうなったのかを考えてみると、おそらく昔は本当に荷物は少なかった。

そして、重要なものをよく忘れていた。

財布や鍵、今日必ず提出しないといけないようなもの。

今は、逆にいろんなものを持っていないと不安だ。
何かを忘れた時の悲しい気持ちに出会いたくない。
何かを持ってる時、人を助けることもできる。
きっと、今まで何回もこのケースで悲しい思いや悔しい思いをしてきたんだと思う。

外出した時に「これ持っていればこれができた‥!この良い瞬間に!」というこだわりが強くなった。フリーになってからさらにその傾向を助長するようになったような気もする。 自分の集中できるタイミングがまだ確実にはわからないからだ。
衝動的に「今だ!」となった時に一気に作り上げるようなものは、自分の能力を超えるぐらいに良いものができることに出会うことも多かった。
そのタイミングを逃したくないのだ。

大人になるにつれて、組織や社会に適合するための対策はどんどん膨らんでいった。
「よくない人間になりたくない」「社会の中でちゃんと生きていきたい」という自分の切なる願いが、荷物を増やすことにもなったように思う。

幼少期の自分をあまりにも思い出せない。
そんな「対策」を重ねる今の私とは対照的に、小さい頃の私はまるで違った。



ここ最近、小さい頃から一緒だった友達と会話することがちょこちょこ増え、今と昔の違いを感じることがとても増えた。

少し話は変わるが、大人になってからは中学校までの密だった友達や、本当に仲のよかった友達がすごくいつも気にかけてくれているように思うことが多い。 それは改めて、幸せなことだなと思う。 そして、とてもありがたい気持ちをいつも持っている。
同時にそれはなんでだろう、と思うこともある。

もちろん、私の周りの友人たちがとても優しい気持ちを持った人たちだということは捉え方として正しいとして、それだけではないような気がする。

現在の私が特に相手に同じようにそうしているわけじゃないにしても、なんとなくそうしてくれている友達が多いなって思うことがよくある。
大人になったら、それぞれに生活があって、住んでる場所も本当に全国に散らばっている。 物理的な距離や、生活環境の違いによって会うことなんてほとんどない。




でも、一方でこの距離が私の生活を守ってくれるようにも思う。
私は自分の時間をすごく大切にするようになった。
人と会うと、良くも悪くも相手のエネルギーのようなものがうつってしまうような感覚があるからだ。 人の話を聞いても、無意識の中で自分のことのように思っている時がある。 そもそも自分の思考で一杯一杯の中にそういうものが入ってくると一気にキャパフルになることがある。 その影響が体調に出ることがすごく多いことに大人になってやっと気がついた。

普段の睡眠時間では回復には足りないようになる。
そうなるといろんなことが狂う。
昼前まで起きられなくなり、朝の光を浴びる時間に起きられなくなる。それは、特性にも関係し、体調コンディションの悪循環パターンに陥る。
そうして、その自分のサイクルを知るようになってから、人と会うのは結構慎重になるようになった。


インスタではよくいいねをくれるのが、本当に小さい時から一緒だった小学校からの友達、専門学校の友達、就職した企業で、1番良い時期を過ごした仲間。

前述で、小さい頃の友達と会話することが増えたと書いたが、「自分の記憶で忘れていること」に触れる機会がここ最近続いた。
幼少期の私はやっぱり変だった。 変だった、というか常識を知るのが遅かった、というか。




昔から「変わってる」みたいな表現はよくされていた。

そんなの、人の主観によるものだと今でも思うことはあるが、きっとその主観からも逸脱して一般的にも変わっていたのかもしれない。
周りのみんなが大人になっていく中で、私はずっと子供だったのかな、と思うことがある。
大人になっていく周りの友達の女の子たちがご近所のおばさんに、ちゃんと「おばさん」と丁寧な表現をしているのに私はその対象のおばさんを呼び捨て。
そして周りも一緒になって呼び捨て。
一つの事象を取ればかわいいものだが、怖いもの知らずというか何も考えていないというか、普通に考えたら年齢としても配慮しそうなものを配慮しなかったという思い出が多いことに気づく。

おそらく、精神面で大人になるのが遅かったようにも思う。

中学の部活では、怖い先生を無視し、部活のメンバーを誘って本来の活動の球技ではないダンスに誘って体育館で毎日ダンスをしていた。 学校の休憩時間に、廊下でいろんなみんなを誘って激しい花一匁をしていた。 嫌な人からしたら、嫌な見え方をしていただろうなと今は思う。
いずれも中学校3年生の時。 とにかく、ふざけていたのだ。
小学生がするようなことをいつも私が仕掛けていたのだ。
でも、楽しかった。
みんなも楽しそうにしてくれるのも、そもそもふざけるのが好きだった。
シリアスな場面が嫌いだった。
場の空気が重くなるのが嫌い。 怒られるのも特に嫌い。 そうしないようにいつも周りをまきこんでそういう行動に出ていたように思う。
でも、それはもしかすると中学1年生の時に学校にいけなかった負からの反動なのかもしれない。




あらゆる紐づく事象が一直線で答えになることはないが、そのスタンスは正直本当に良い大人になった今でも変わらなくて、どうしてもシビアな時間をできるだけ楽しい時間にしたいと思うのは変わらない。

それを、自分の性格と、発達の特性なのかなと思うことがある。

大人になるにつれ、「忘れ物がよくないこと」が常識の中のことだということを、自分が忘れ物をするたびに思い知らされた。

単純に「持っていれば残念にならない」だけじゃないのかも、と自分の中での安心感と照らし合わせる。

大人になりたくなかった私が、荷物が増えたことは、大人として適応するための、自分を社会から逸脱させないようにするための「鎧のようなもの」としているのかなと思うことがある。

そして、友人たちはその私の普通ではなかった危うさと、「楽しい時間を作った人」として、擁護してくれているような気がしている。

私がこの特性を持っても、自信を持って生きていられるように。

そんな優しさを、インスタのいいねから、友人たちから感じるようになった。




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ここまで読んでくださってありがとうございます。

このnoteは、私の経験や主観ですが、記録として書いています。
また、自分の感性を外に出せたら、とYouTubeも制作しています。
もしよければご覧になっていただきたいです。
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