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【マロニエの木の下で】二十一章(新たな光)

 琴が亡くなって二年目の夏を迎えた。
慎也は県立美術館でシャガール展がある事を知り出かけて行った。

受付でチケットを買っていると、見覚えのある女性が会場から出てきた。
「あ!」とお互いが顔を見合わせた。
櫻井画材店の彼女だった。
彼女は見終わった帰りらしく「とても良かったですよ」といつものあの笑顔で言った。慎也は慌てて会釈をすると「楽しみです」と会場に入っていった。

鮮やかな色、大胆に描かれたユニークな動物たち、そしてシャガールとベラの愛・・・。
巨大な画面にダイナミックに描かれた世界を食い入るように見て回った。
『街の上で』という一枚の絵の前で足が止まった。それはシャガールがベラを抱いて空を舞う絵だった。
「愛か・・・」慎也は叶わなかった夢をこの絵の中で見ようとした。
もう2時間近くは観覧しただろうか。会場の出口の階段を下りていくと、受付横のギャラリーショップに櫻井画材店の彼女がいた。
彼女は何かの図録を見ていたが、慎也に気付くとそれを置き近づいてきた。
(あれ?彼女がいる?)と不思議に思い近づいていくと、それに答えるように「待っていました」と言った。
その言葉に驚いている慎也に「もしよろしければ、コーヒーでも飲みませんか?」と館内にあるカフェを指さした。
「あ・・・はい・・・」思いがけない誘いだったが、慎也は断らなかった。

カフェの中は休日だったので、ほとんど満席状態だった。慎也たちが入った時に丁度奥の窓側の席が空き、そこに案内された。
「実は私お腹が空いてるんです」と言いながらメニュー表を慎也にも見えるように広げてくれた。慎也も確かに空腹だったが緊張して食べる気にはなれず何を飲もうかと考えていた。
「ランチを食べてもいいですか?」と彼女が言った「どうぞ・・・」と答えて自分はコーヒーを頼もうと思った。
「お腹は空いていませんか?」
「少し空いているかも・・・」
「じゃあランチを一緒に食べませんか?」
慎也は言われるままに「じゃあ、僕も同じで・・・」と言った。
彼女はランチを二つ注文して「今日はパスタだそうです」と嬉しそうに慎也に言った。
「そうですか」と恥ずかしい顔をどこに向けるのでもなく答えた。
隣の席に座っていた若いカップルがこれから映画に行こうかと話をしていた。慎也は少しうつむき加減でその話を聞いていた。
「シャガールお好きなんですか?」
「はい・・・」
「私も好きなんです」
「そうですか・・・」
「あの~私、櫻井亜希子と言います」と突然自分の名前を教えてくれた。
「あ、亜希子さん、ですか・・・僕は慎也、西崎慎也と言います」
「いつも画材店を利用して頂いてありがとうございます、西崎さん」
「いいえ、こちらこそ」
慎也は初めてのこの状況をどう対処していいのかわからず、彼女からの質問にただ答えるのが精一杯だった。
ランチが来ると、慎也は目を向ける場所がやっと見つかったとばかりにフォークをとり慌ててパスタを口に運んだ。
「いただきま~す」といって彼女も食べ始めた。
フォークとスプーンでパスタを上手にクルクルと巻き取る細く白い指が見えた。
たまに彼女と目が合うのがとても恥ずかしかった。
食後のコーヒーが運ばれてきた頃には、慎也の緊張は少しだけ解けていた。
「美味しかった~」と彼女は言った
「亜希子さん、今日は休みですか?」
「今日は母が店番をしてくれています。西崎さんはどんなお仕事をされているんですか?」
「どんな・・・うーん・・・道を作るアルバイトをしています」
「道路工事の作業員さん?」
「まあ・・・そんな感じです」
「大変なお仕事をされているんですね」

30分ばかり話しただろうか、また来店客が多くなってきた。
状況を察した彼女は、出ましょうかと目で合図をした。
こういう時は男が支払うものだろうかと思い、慎也はぎこちなく伝票に手を伸ばした。すると
「ここは私が・・・誘ったんですから」と彼女も取ろうとしたが、「いいです」と伝票を持ってレジに向かった。

二人は美術館を出た。
駐車場に行くまでの間は一面芝生が広がっている。
何組かの家族連れやカップルが木陰で休んだり遊んだりしていた。
「気持ちのいい日ですね。とても暑いですけど」そう言いながら彼女は青空を見上げた。彼女の着ているライトブルーのワンピースと青空がマッチして慎也には眩しく映った。
並んで歩いた時、思っていたより背が高いんだなと慎也は思った。
「今日はごちそうさまでした、次は私に出させてくださいね」
「あ、はい」と言ってしまった。
「西崎さん、またね」と手を振りながら自分の車の方へ歩いて行った。
「じゃあまた」慎也は答えた。
肩まであるストレートの黒髪が西日を受けて優しく揺れていた。
慎也は彼女を見送りながら「またね・・・か」と呟いた。
なぜかとても懐かしく温かい言葉だった。
慎也は何度も「またね」という言葉を思い返していた。

その晩慎也は久しぶりに電気を点けづに風呂に入った。
月はなかったが窓からの明かりが微かに差し込んでいた。
湯船に浸かりながら薄暗い天井をしばらく眺めていた。
琴も電話を切る時、何度も「またね」と言った。
しかし、「またね」という言葉が現実になる事はなかった。
今日の「またね」と言った亜希子さんの言葉は現実になる。

「またね」という新たな光が、折れかけていた慎也の心を再び繋ぎとめてくれた。
真っ暗な部屋だったが、自分の姿がくっきりと見えた夜だった。

「また亜希子さんに会おう」




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