短編小説|"ふつう"を目指す特別支援級、みのり《上》
朝、台所に行くと、味噌汁の匂いがふわっと広がった。お母さんが箸を揃えていて、お父さんは新聞を半分折りにして読んでいる。
テレビではニュースが流れていて、「紗良さまの外交」がどうのこうのと言っているけど、朝から難しいことを聞きたくない。
高二のお兄ちゃんは、制服のシャツのボタンを片手で留めながら、「今日、部活があるから」とどこか楽しげだった。
しばらくして、私も出発の時間。
リュックの肩ひもを、ぎゅっと握る。
いつも決まって、この時間に出発する。
お気に入りの靴を、右足、左足の順番で。
お母さんが私の方をちらっと見て、声を掛ける。
「みのり、行ってらっしゃい」
外に出ると、朝の空気がひんやりしていた。
通学路の白線を踏まないように歩くのは、私のいつもの遊び。
白線の上に影が重なると、形が伸びたり縮んだりして、それを見るのがなんとなく好きだった。
中学校の校門をくぐると、ゆうきが待っていた。
「おはよ」
約束をしているわけではないが、いつもここで待ち合わせる。二人で”きらめき”に入ると、松岡先生が黒板に今日の予定を書いていた。
「みのりさん、ゆうきさん、おはよう」
その声は、朝の光みたいにやわらかい。
6人が全員揃って、朝の会が始まった。
私は先生が書いてくれた今日の予定を、自分用にもメモしておく。
一時間目の数学。
ノートにゆっくり数字を書いていく。
隣の席のまひろが、「ここ、こうやるんだよ」と指で示してくれた。私は小さく笑ってうなずく。
二時間目の国語。
文章を読む声が、教室の中でゆっくり重なる。
私は指で行を追いながら、ときどき窓の外に視線を落とした。風に揺れる木の影が、黒板の端に静かに映っている。
三時間目は家庭科。
この時間は、2年3組に行く。
廊下の向こうから、3組の子たちの声が近づいてくる。笑い声、走る音、エプロンの紐を結びながら歩く子の足音。
私が廊下で硬直していると、「みのり、こっち!」と幼馴染のさやかが手を振ってくれた。その声を聞くと、自然と体の力が抜ける。
今日のメニューは肉じゃが。
私はじゃがいもの皮をむいて、同じ大きさに切っていく。包丁の動きは、自分の呼吸と同じリズムだった。
「みのり、切るの上手だよな」
りょうたが言う。
「うち、休みの日は私が作ってるから」
そう返すと、
りょうたが「いいな、俺も作ってほしい」と笑う。
そこまで言うなら今度作ってあげてもいいけど、家族以外に作るのは緊張するな……。
後ろの班が大きな声で盛り上がり始めると、胸の奥がざわっと揺れた。
「みのり、これ混ぜて」
さやかが鍋を差し出す。
私はうなずいて、木べらをゆっくり回した。
回せば回すほど、心も少しずつ落ち着いていく。
「ありがとう。助かる」
さやかの声は、鍋の湯気みたいにやわらかい。
四時間目の体育。
更衣室で着替えるとき、私はいつも少しだけ焦る。
みんなの動きが速くて、服の擦れる音が重なって、胸の奥がざわざわする。
「みのり、靴下逆だよ」
さやかが小声で教えてくれた。
体育館に入ると、ボールが床を跳ねる音が響いた。その音が胸に刺さるように感じる。
「みのり、パスいくよ」
さやかが声をかける。
私はうなずいて、両手を広げた。ボールが手に収まると、胸の奥のざわつきが落ち着いた。
放課後。
リュックを背負って校門を出ると、夕方の風が髪を揺らした。
空の色が、ゆっくり変わっていくのを見るのが好きだ。
家に着くと、お母さんが洗濯物を取り込んでいた。「おかえり。今日はどうだった?」
「うん、楽しかったよ」とだけ答える。
その一言の中に、今日の全部をしまい込んだ。
自分の部屋に入ると、まずは連絡帳を確認。
明日の持ち物を用意して、宿題に取り掛かった。この順番で進めると、心が落ち着く。
ノートのページをめくり、書きかけの文字を見つめる。その横に、新しい一行をゆっくりと書き足した。
明日も、今日みたいに過ごせるといいな。
夏の光が少し白くにじむ午後。
窓の外では、まだ梅雨が明けきらない空気が揺れている。
きらめきの教室で、松岡先生が”一枚の用紙”を配っていた。
「来週、三者懇談があります。その時までに、この紙を書いて提出してください」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が重くなった。
三者懇談という言葉は、いつも“あの日”を思い出させる。
あの日の空も、今日みたいに白かった。
雲が薄く広がっていて、太陽の位置がよくわからなかった。
相談室の机をはさんで、担任の先生が座っていた。私はお母さんと一緒に入室し、先生の向かいに座る。
机の木目が、やけにくっきり見えた。
「みのりさん、お母さんと相談してね、“きらめき”がどうかなって思うの」
先生は、ゆっくりとそう言った。
お母さんは、何も言わない。
「きらめきなら、みのりさんのペースで進めることができるから」
私は何も言わなかった。
言葉が見つからなかった。
“もう決まっているんだ”
その空気が、部屋の中に満ちていた。
お母さんは静かにうなずいる。
私は、その顔を横目で見ていた。
胸の奥に、小さな棘が刺さった気がした。
「高校も特別支援学校に行けば、自分のペースで安心して勉強できるから」
その言葉が、遠くで響いた。
翌週、初めて”きらめき”に入った。
机が六つだけ並んでいて、窓から入る光が、”クラス”よりもやわらかく感じた。
「みのりさん、はじめまして」
松岡先生の声は、あの日の白い空とは違って、あたたかい色をしていた。
「みのり、どうしたの?」
気づけば、私は美術室の前で立ち止まっていた。
さやかが覗き込んでくる。
「三者懇談の話、聞いた?」
「うん」
「うちも。進路の話をするらしいよ」
それ以上、何も言わない。
その沈黙が、やさしかった。
今日の美術は、“光と影のデッサン”。
私は鉛筆を削って、白い画用紙の前に座った。
「みのり、影の形きれいだね」
さやかが横からのぞき込む。
「そう?」
「みのりは手先が器用で羨ましい」
鉛筆を動かすと、心の中のもやもやが晴れていく。
放課後。
校門を出ると、夕方の風が頬に触れた。
湿った夏の風が、ゆっくりと肌にまとわりつく。
家に帰ると、お母さんが言った。
「おかえり。三者懇談、来週ね」
「うん」とだけ返す。
自分の部屋に入り、いつもの順番を熟す。
机の上のノートを開いた。
今日のページの横に、新しい一行を書き足す。
その線は、昨日よりもまっすぐだった。
”先生からもらった紙”には、何を書くか決めてあった。
翌週。
きらめきの前で、私は自分の手を見つめていた。
指先が少し冷たい。
でも、震えてはいなかった。
「みのりさん、入ってどうぞ」
松岡先生の声がした。
ドアを開けると、松岡先生が座っていた。
私とお母さんは、その向かいに静かに座った。
机の上には、”進路希望調査の紙”が置かれていた。
「みのりさん。今日は、みのりさんの将来の気持ちを聞かせてほしいの」
松岡先生が、まっすぐに言った。
私は紙を見つめた。
文字が少しだけにじんで見えた。
「私……みんなと、一緒にいたい。また同じがいいんです」
息を吸って、もう一度言った。
「だから……受験をして、普通科に行きたいです」
今回は、言えた。
言葉にした瞬間、胸の奥がすこし熱くなった。
お母さんが、ゆっくり私の方を見た。
あの日とは、違う目をしていた。
松岡先生は、静かにうなずいた。
お母さんも、何も言わずにうなずいている。
松岡先生は、お母さんの気持ちをそっと掬い上げるように言った。
「特別支援学校も頭に入れながら、挑戦してみるのもいいかもしれませんね」
私はうなずいた。
「……はい。でも、普通科を第一にしたいです」
また、ちゃんと言えた。
面談が終わって教室を出ると、廊下の窓から夕方の光が差し込んでいた。
夏の光はまだ強いのに、どこかやわらかかった。
お母さんが隣で歩きながら言った。
「みのり……勉強がんばるのよ」
私は「うん」とだけ答えた。
その掛け合いに、今日の全部が詰まっていた。
校門のところで、さやかが待っていた。
「どうだった?」
私は少しだけ照れながら言った。
「……普通科に行きたいって言った」
さやかは、夕日の中でふわっと笑った。
「そっか。いっしょに頑張ろうね」
その言葉が、何よりもあたたかかった。
私は、さやかと一緒にいたい。
家に帰って、机の上のノートを開いた。
新しいページに、ゆっくりと文字を書く。
“普通科を第一志望にする。がんばる。”
その線は、今日のどの線よりも強かった。
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