短編小説 「今日はいい日だ」
寒くて空気が澄んでいて、三日月がきれいだった。
風呂桶に固形石鹸を入れて、肩にタオルをかけて夜道を歩く。ボディソープとかシャンプーとか洒落たものは持っていなかった。少ない街灯は夜道をボゥっと照らす。
カンカンカンカン、ところどころ錆びた鉄の階段は澄んだ夜空に虚しく響く。
インターホンを押す、おしゃれな今どきのピンポーンでも音楽でもない、ただブーと鳴る。
「銭湯行こうぜ。あそこの銭湯、温泉が出てて、上がっても体の芯まであったかくて好きなんだよ」
「めんどくさいよ」
出てきたあいつは、やつれて頬骨が出て目もうつろだった。
順調に行っていた会社で同僚にはめられ、ミスをかぶりクビになった。
最近では、外にも出ず僕の連絡にも返信をしない。さすがに、心配になってきてみれば、ろくな食事もしていないことは明確だった。食事すらしていない男に、銭湯行こうぜ!は、軽薄すぎただろうか?でも、外に出て、少しでも気晴らしして欲しかった。
「いいから行くぞ!」
なかば強引に連れ出す。パジャマのあいつはタオルだけをひっかけて出てきた。
「なんでパジャマなんだよ?」
「帰ってきて着替えるの面倒だろ?どうせパジャマで寝るんだから」
それもそうか?いやいや違う。だってそれ。
スウェットならまだ許せる。でも麻の本当にパジャマはさすがに笑ってしまう。
「まあいいや。さっぱりして、気分転換しろよ」
2人でたいした会話もなく歩く。道の途中街灯の下に黒猫がいて、あいつはボソッと
「たまに外出すれば不吉だな」
などと言う。
「迷信だろ。とらわれすぎ、ネガティブすぎ」
古びた木造の銭湯には番台に腰の曲がったおばあさんがいて、近所の知り合いなのだろうか話し込んでいる。こっちを少し見て300円だよというと受け取ったお金を木箱に入れた。
風呂場には老人1人と若者2人組がいるだけで、閑散としていた。
「人少なくてラッキーだな」
「そうだな」
短い会話もすぐに途切れて、それぞれに頭も体も固形せっけんで一緒くたに洗うと
ざばーんと敢えて音を立てて湯船に浸かる。
染みわたる温泉が体に元気を与えてくれるようだった。
「はじめて来たけど、いいとこだな。安いし」
「だろ、部屋のせまーい風呂でシャワーだけもいいけど、たまにはでっかい風呂に浸かると
気分も晴れるし、自分がなんかでかくなったような広い気持になれるよ」
「なんだよそれ」
あいつは、少し笑って湯を手で掬って顔を撫でた。
「あーいい気持ちだ」
言葉は少ないが連れてきてよかった。
「俺。いつまでもこのままじゃダメなのはわかってるんだよ」
「そうだろうな。わかってるだろうなってことを俺はわかってる」
俺は、わかる。あいつは、不器用だ。でも、こんなところで負ける男じゃない。
俺たちは、お風呂を上がって裸にタオルを腰に巻いて、自販機の牛乳を2本買う。
「これしか勝たんのよ」
俺とあいつは、腰に手をあててぐびぐび牛乳を飲む。
今日はいい日だ。
今回はこちらの企画に参加させていただきました😽
#せりふ三題噺 #温泉パジャマ頬骨
