紙一重 (2024/07/16 投稿記事)

本日もご訪問ありがとうございます。

今回は最近氣付いたことを書きます。



未熟者

これは昨日思ったことなのですが、わたしは未熟者でしたね。
水回りのお掃除をしていたのですが、日常生活で様々とあるもやもやごとは、結局のところ自身の未熟さ故に起こったことで感じたことであるということです。
「こう思ったけど、相手からすりゃ知ったこっちゃないし、自分自身の考え方で相手を当てはめていただけ。つまり自分自身が未熟者だっただけだな」ということです。

以前に『相手が求めていないことを与えたところで、それは与える側の自己満足であるだけ』という内容の記事を書きました。


その「相手が求めていないこと」を与えて望んだ反応がなければ不機嫌になって不貞腐れて、というのは全く未熟者であるわけですが、その行動をしていた理由としては『褒められたい』や『認められたい』という願望があったため、だとわたし自身で思います。

それはわたし自身の幼少期の記憶まで立ち戻って説明する必要がありますが、今回の内容には関係がないので割愛いたします。

さて。
上記のような『褒められたい』や『認められたい』という願望は数週間や数ヶ月前には自覺をしておりました。
が、《意識にはある》ということで、脳みそで考えているという形でした。

しかし、ついこの間お風呂に入っている時「『褒められたい』や『認められたい』という願望があったこと」それをちゃんと自覺し、腑にも落ちたのです。

その時に「褒められたかったよね、でも人にそれを頼ったからうまくいかなかったよね。もう大丈夫だよ〜、自分自身が認めたらそれでいいんだからね」と、かけ湯をするように自分の心へ想いをかけました。

同じ時期に「結局自分が世界をどう見ているかでしかないんだよな」と考えていたので、上記した自己への癒しの時に「なんもかんも紙一重か」と思いました。

と、そのときに何かが引っかかりました。


「紙一重?『神も仏も一つ』ということ?」


なんでしょうね。真理なんじゃないかと思いました。
氣付いた時は冗談でなく(°0°)←こんな顔をしていましたね。


まぁまぁ、一神教だ!とは思わずに一旦聴いてください。



かみひとえ

むかーしわたしは以下のようなことを書きました。

地球上の生物は地球のものを食べ、地球に排泄しています。
地球のものを食べて地球に排泄している、ということは、われわれ生物は地球というものの循環の中にいることになります。
地球のことを神と形容されることがありますが、それならその神なる地球の循環の中にあるわれわれ生物も神であるということである。
というよりも地球に存在するものすべてが神であり、ひいてはわれわれは宇宙でもある。
自分自身が神である、ということは、独立していると思っている他の他者も神であるということです。

はい。
そういうことなのですが、紙一重という言葉があります。

その言葉の意味は『相反するものの、極わずかな隔たり』というものです。

日本語というのはまったく面白い言語で、意味が違う言葉でも同じ音で発音します。

橋・端・箸が良い例ですね。


そして『紙』は『神』と同じ音です。
そして【一重】は意訳ですが「同じもの」と解釈ができます。

『紙一重』を『神一重』と解釈した場合、「神は一つ」という読み取り方ができるようになります。

ということはひとつの事象を "イスラム教的に解釈し編纂すればコーラン"になり、"キリスト教的に解釈編纂すると新約聖書"、"ユダヤ教的に解釈すると旧約聖書"、"仏教的に解釈すると般若心経などのお経"になっている、というだけなのではないかと思うのです(夏目漱石さんの『こころ』をどの出版社が出版社の解釈で編纂しているか、だけ、みたいな感じ)。

ということは宗教觀での爭いや人種間での爭いというものは「髪の毛が皮膚細胞を嫌って歪みあっている」というようなものだということですかね。


「仏と神はちゃうで」という意見が聞こえてきそうですが、それ自体がミスリードというか惑わしというのか。

『別のもの』と捉えるから爭いが生まれると感じます。

しかし、根っこは同じものの枝葉が違う程度でいがみ合っていただけなのだ、と氣付ければ、冗談ではなく人種間での爭いや宗教觀でのいざこざはなくなると思います(実際のところ「いざこざは金儲けになる」と知っている人が阻んで、爭いはなくらないのだろうとは思う)。

また「自分自身は神である」ことからも、《神一重》として、自分はキリストでもありアッラーでもありブッダでもあり天照大神でもあり大國主命でもありラーでもあり、これをお読みいただいているあなた自身でもある、ということなのです。


凡庸な結論

さあ、そんなことを書いてきたのですが、「だからなんやねん」という声が聞こえてきそうです。

『わたしもあなたも神で、一つのもの』であるならば、わたしは『相手(他者)には優しくすればよい』・『接するしかない』と思いました。

脳は自分と他者を選別できないなんて聴きますが、その觀点から見ても「人に対して言った暴言」だったとしても、実は自分自身に対して言っている、ということとなりますし、『わたしはあなたであなたはわたし』という真理を以って考えた場合も〈自分自身に対して言った暴言〉ということになりますからね。


恐れ多い発言ではありますが、この真理にお風呂場で氣付いた際、冗談ではなく震えました。

そして、天啓を得たというか、これは広めていかないといけないのだと思いました。

まさに『我、天命を得たり』の状態です。


そしてその天命を得るためのこの半年の深い辛苦であったのだろうと思うし、それを広めるためとしての音樂や、こういった文章を書きたいという欲があるのだろうと感じます。


し、か、し、ちょっと荷が重いよ〜〜〜〜とは思います。

今回書いた話は確実に話す相手を選びますしね。

世が世なら投獄打ち首必至な考え方だと思うし。


ですが、いくら荷が重いからと言って死ねやしねーんだと思います。
一度、自死をしようと思い東尋坊的な場所に行きましたが、怖氣付いて今に至るという事実もありますしね。
多分ですが、使命みたいなものがのこっているうちは致死必死的な事故でも死ねやしないと思います。
どなた様かに襷が渡った時に死にでもするんじゃないですかね、しらんす。


以上が、自身の未熟者を自覺して得た天啓のお話でした。
変人の妄言くらいにでも思ってください(・◡・)

でも他者には優しく、でお願いいたします( ¨̮ )


ところで、憂鬱が勝っている時には「ない」に目が向きがちですが、憂鬱が劣勢になり氣持ちが回復してきた時は「ある」に意識が向きますね。
「あ、自分笑ってる」みたいに自分自身の「ある部分」や「できている部分」が目についてくるのです。

ありがとうございました( ¨̮ )

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一年前に元ブログにて書いた内容でございますが、一年の月日が経ったとてやっぱり真理の一端に触れている考え方だと思う。
わたしはこの意見を推し進めます!

世界が思いやりと優しさに包まれたらいいなと思います。


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ということはひとつの事象を "イスラム教的に解釈し編纂すればコーラン"になり、"キリスト教的に解釈編纂すると新約聖書"、"ユダヤ教的に解釈すると旧約聖書"、"仏教的に解釈すると般若心経などのお経"になっている、というだけなのではないかと思うのです。
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上記部分を「夏目漱石さんの『こころ』をどの出版社が出版社の解釈で編纂しているか、だけ、みたいな感じ」と喩えましたが、それよりも『同じ原作でも翻訳者によって表現が変わる』の方が喩えとしては合っていると感じる。

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