【創作大賞2024】アンチロマンス 第六話
お風呂上りにベッドの上でスマホを触っていたら見慣れないアイコンからメッセージが入った。それが昼間連絡先を交換したばかりの朝日奈陽香だと気づくのには、すこし時間がかかった。
そんなに筆まめなタイプにも見えなかったのにな、なんて思いながらメッセージに視線を移す。そして「えっ」と声が出た。
『結愛ちゃん、今日はありがとう』
『例の子ね、恋人と結婚するんだって』
新展開があったら教えてとは言ったが、そんな方向性は求めていない。私は慌てて文字盤に指をすべらせた。
『ほんと?』
『それで陽香はどうするの』
やきもきしながら返信を待つ。すると帰ってきたのは二文字だった。
『別に』
駄目だ。LINEで話がまともに進むタイプじゃない。
『ねえちょっと電話しない?』
そう送ってから、返信を待たずに通話ボタンをタップする。けれど通話がつながることはなく、かわりに短いメッセージ。
『今泣きすぎてひどい声だからやだ』
「恋じゃん……」
誰も聞く者もいないというのに思わず声が出た。だって幼馴染の結婚が決まって泣きじゃくるんでしょ? それはもう恋。私は電話を切り上げて迷わず文字を打った。
『やっぱりその人のこと好きなんじゃん』
『違う』
陽香の返信にも迷いはなかった。まったくの強情っぷり。誰がどう見たって恋であるのにそれを認めないんだから。私はひとりで顔を覆って、それからこう返信した。
『ちょっと会って話そ。今度いつ空いてる?』
こうなったら、それは恋だと私がちゃんと教えてあげなくちゃ。妙な使命感に駆られて私は鼻息を荒くした。
次の金曜日、仕事終わりに河原町までやって来た陽香はくたびれた顔をしていた。私を見るなり「悪いけど、なにもおもしろい話はないから」と言ったその顔はすねているようで、私は思わず自分の頬を触ってしまう。一体どんなおもしろそうな顔をしていたのかと。
「べつにおもしろいなんて思ってないからさ。とりあえず行こ」
手負いの獣みたいな陽香をどうどうとなだめて、ともかくも予約していた店に連れ込む。すねていようが何だろうが大阪から河原町まで出てきたのだ。私に聞いてほしい話があるに違いなかった。
「何飲む?」
陽香はメニューを一瞥して、たいして迷うこともなしに答えた。
「酎ハイかなあ。グレープフルーツ」
「じゃあ私オレンジにしよ」
こういうとき、人間というのは二種類に分かれる。「とりあえずビール」の人間とそれ以外だ。ここで「とりあえずビール」を選ばなかったあたり、少なくとも私と陽香にはひとつ共通点があったわけだ。
それから枝豆とか冷ややっことか、いくらか料理をオーダーして私は陽香に向きなおる。
「で。どうなの」
陽香はお品書きをまとめてわきによけながら、ちらと私を見た。
「どうって」
どうって、と聞かれたらたしかに上手くは言えない。私はうーん、としばらく悩んでからこう言った。
「泣いたんでしょ?」
陽香は私のほうを見もせずに答える。
「泣いたよ。今でも夜になるとちょっと泣ける」
「恋じゃん」
「違うし」
ばっさりと私の言葉を切って捨て、陽香は大きく息を吸い込んだ。
「ほんとにそういうんじゃない。言ったでしょ、どきどきしないの。ああ、好きだなあ、みたいなのもないの。夜電話してるときに無性に会いたいな、とかも思わないし、好きだって言ってほしいとかも思ったことない」
「じゃあさ、たとえば夕焼けがきれいだったときとか、割った卵が双子だったときとか、一番にその人に教えたくならない?」
「ならない。インスタ上げるから」
「そっかあ」
言われてみればたしかに私もインスタに上げるわ。これはたとえが悪かった。私はかわりのたとえを探して頭をフル回転させる。
「じゃあ、ラブソングを聴いててその人のこと思い出したりしない?」
この問いには陽香は頭を悩ませたようだった。しばらく無言の時間があって、やがて彼女は首をひねりながら言う。
「天城越えとか……?」
「あなたを殺すの? こわ……」
恋じゃん、と言いたかったけれどちょっと恋かどうか微妙なラインの歌が来た。恋と言うかそれはもう愛憎だ。
でも案外真相はそんなものなのかもしれない。あんまり長く近くにいすぎて恋を通り過ぎてしまった。ときめきや切なさを置き去りにして激しい執着だけが残った。殺してしまいたいとまで燃える、炎のような執着だけ。
でもなあ。それってやっぱり、恋の一種だと思うんだけど。
「ねえ、どきどきしない恋があってもいいんじゃない?」
テーブルに肘をのっけて言う。陽香はじっとりと私を見た。
「なにそれ」
「私もわかんない。でもたとえば、結婚して十年目の夫婦は付き合いたてみたいに相手にときめくこと少なくなるでしょ。でもそれが恋じゃないのかと言えば、そんなこともないじゃん」
私の言葉に陽香は黙り込んだ。それからぽつりと一言。
「でもこれが恋だったら、不毛じゃない」
それは、その通りだ。
相手はもうほかの人と婚約してしまった。今さらこれが恋だとわかったからってどうにもならない。虚しいだけだ。それなら恋じゃないと言い聞かせて忘れるほうが、ずっと建設的だ。
思わぬ正論に私はなにも言えなくなった。ふいに落ちた沈黙を狙ったかのように飲み物と料理がテーブルに運ばれてくる。私たちは目を見合わせ、無言でグラスをかちんとぶつけた。乾杯の音頭はなにも思いつかなかった。
陽香が静かな声で話し始めたのは、酎ハイをごくごくと煽ってからだった。
「もとが同じ体だったんじゃないかって時々思うの」
どういう意味かわからなかったけれど、下手に相づちを打てる空気じゃなかったから私は黙って続きを待った。彼女は言葉を選びながらゆっくりと口を開く。
「体っていうか、細胞? 一卵性の双子みたいにさ。幼稚園のときからずっと一緒にいたから、わたしとあいつは一緒なんだって無意識に思っちゃってて。でも気づいたら運動も勉強も家事も恋愛も、わたしよりあいつのほうがよっぽどよくできるの。それが許せない。一緒じゃなきゃ落ち着かない」
そうおもむろに話す陽香の目元は赤く染まっている。もう酔ったのかもしれない。それとも一週間ずっとこらえていた感情が爆発したのかも。私はやっぱり相づちを打つこともできず陽香の言葉を何度か咀嚼した。
「同じでありたい。ずっと隣で同じものを見てたかった。勝手にどっか行っちゃうのがいや」
陽香の話す言葉は、私にはよく意味がわからなかった。
私には幼馴染はいない。きょうだいもいない。だからどの言葉も頭の上をぷかぷかと通過していくばかりで、手に取って吟味してみようにもうまくいかないのだった。不思議だなと思う。私はそんなのもう恋でいいじゃんと思うのだけれど、陽香は絶対に恋じゃないと言う。私と陽香では恋の定義が違うのだ。
私は上手い言葉を見つけられず、しばらくののちに「その人と結婚したい?」とたずねた。そうすればもっと問題がクリアになると思ったからだ。
「結婚はしたくない。でもなんでわたしじゃ駄目だったの? とは思う」
難解だ。私はいよいよわけがわからなくなって、考えることを放棄した。グラスを持ち上げて「むずかしいね」と言う。陽香は盛大にため息をついて、「むずかしいの」と答えた。それからやけになったように一言。
「あーあ。わたしも結婚しようかな」
「しようと思ってできるものじゃないじゃん。ていうか好意を返されるとこわくなるって言ってなかった?」
「だからいっそお見合いとかさ。愛のない結婚をだな」
それはそれでむずかしいだろうなと思う。一緒に生活していたら情が芽生えるのが人間というものじゃないだろうか。
と、そんなことを言う前に、陽香がお箸を振りながら言う。
「ていうかわたしの話ばっかりフェアじゃない。結愛ちゃんの話も聞かせてよ」
「私今パートナーいないし」
「アプリでほかに会ってる人いないの? いいなって人は?」
「それはいる」
まだ付き合うまではいかないけれど、何度か会って結構いいなと思っている人はいる。
「でもその人返信遅くて。脈ないのかなあ」
「脈ありだから返信に時間かかってるのかも」
「だったらいいけど」
枝豆をつまみながらぼやく。陽香はにわかに元気になって私の恋愛事情をつまびらかにしようとした。私もカミングアウトしている友だちはそれほど多くないから、楽しくなってあれやこれやと話しこんでしまう。
あんまりいい出会い方じゃなかったけれど、アプリでマッチングしただけあって私と陽香はそこそこ気が合ってしまうのだった。それで気づけば二軒目、果てはカラオケと場所を変え、いつのまにか朝の五時だった。フリータイム終了とともにカラオケを追い出され、私たちは凍える早朝の河原町に出た。
今電車乗ったら吐くかも、と陽香が言うので、コンビニで二日酔い用の栄養ドリンクを買って私たちは鴨川沿いまで歩いた。マフラーをしっかり巻きつけても隙間から寒さが忍びこんで、ぶるぶると背筋が震えた。
川岸に腰を下ろし、空を見上げる。まだ暗い中にひとつきり、明けの明星が輝いていた。
「ねえ、そういえばその幼馴染ってどんな顔? 写真ある?」
特別熱心な興味があったわけではないが、ここまで陽香を惑わす男の顔がどんなものかふと気になったのだ。陽香はだるそうに下を向いていたけれど、のそのそと動いてスマホを私の前に差し出した。
「これ」
それは昔のアルバムをスマホのカメラで撮ったらしい画像で、ランドセルを背負った六歳くらいの男女がこちらに向かってピースをしていた。入学式かなにかだろうか。私は笑う。
「いや、かわいいけどさ。今の写真ないの?」
「さすがに二十歳も越えて男友だちの写真なんか撮らないよ。あいつあんまり写真が好きなほうじゃないし。ああでもインスタなら」
言いながら陽香はスマホを操作する。Instagramを開き、フォロワーの一覧をスクロールし、ひとつのアカウントをタップした。それからすこし前の投稿を開いて、そしてそこで私の呼吸は止まった。
嘘だ。
「ほら、これ、峰岸和斗っていうの。隣にいるのが恋人」
大阪のテーマパークで自撮りしたらしい、よくあるカップルの写真だった。だけど私は身動きもできずその写真を見つめ続けた。唇から音がもれたのは無意識だった。
「葵ちゃん」
カメラに向かって微笑む奥二重の女性。見間違うはずがない。彼女は私の、かつての恋人だ。
「え、知り合い? そう、葵さんって言うんだけど」
驚いた声で陽香が言う。これで他人の空似の線も消えた。本当なんだ。本当に葵ちゃんなんだ。くらくらする頭で葵ちゃんの隣に視線を移す。どこかぎこちない顔で笑う黒髪の男。見覚えがないかと問われれば、かすかにある気がした。私はおそるおそる問う。
「ねえ、ふたりが付き合い始めたのって、何年前?」
「ええ、たしか、五年前だったかな」
「五年前の秋?」
「たぶんそうだったと思うけど。なんで」
陽香が戸惑いをあらわにする。私は深く息を吐き出して、短く言った。
「私の昔の彼女なの」
今度は陽香が目を見開く番だった。えっ、と小さな悲鳴がもれ、その目が画面と私を行ったり来たりする。
「前話したでしょ。『恋をしないから』って私を振った子。その一ヶ月後に、好きな人ができたってその男を私の前に連れてきたの」
連れて来いと言ったのは私だけど。この際それは些事だ。
陽香は眉間にしわを寄せてすこし黙った。それから一言。
「それは、傷つくね」
「でしょ?」
あのときのことは今でも忘れられない。ときどき思い出してベッドの上でじたばたと暴れたくなるような、強烈な痛みがまだ胸の奥に巣食っている。
「恋をしないから、なんてほんと最低の嘘でしょ。恋をしない人がいるはずないじゃない」
誰だって誰かに恋をする。人間はそういう生き物だ。彼女だってそうだった。その相手が私じゃなかっただけ。
恋をしないなんて嘘までついて私を振って、その一ヶ月後にはあっさりとそれを翻して別の人間と、しかも男と付き合い始めた女。ひどい女。
「嘘なんてつかないでほしかった。それなら正直に嫌いだとか、いっそレズビアンなんて気持ち悪いって言ってくれたほうがよかったのに」
そう吐き捨てて鴨川に視線を投げる。涙がにじみそうになるのを必死で堪えた。もう五年も経ったのに、いまだにあの女のことで涙が出るなんて自分があわれで仕方なかったから。
陽香はしばらく何も言わなかった。川だけが静かに私たちのそばを流れていく。「ごめん、変な話して」とはぐらかそうとしたところでやっと陽香が口を開いた。
「あのさ。本当に恋をしない人もいるらしいよ」
突然のことに陽香のほうを見る。彼女は自分の膝のあたりに視線を伏せて続けた。
「アロマンティックって言うんだって。そういうセクシュアリティなの。だからさ。葵さんが恋をしないって言ったのも、別に嘘のつもりはなかったんじゃないの」
おそるおそるといったように言葉を紡ぐ、それが私のためなのだということはわかった。正確には私と葵ちゃんのため。だけど私はどうしても納得できなかったから声を荒げた。
「でも結局恋したじゃん。今でも付き合ってるんでしょ、その男と」
「うん。でもセクシュアリティって変わることもあるらしいし。あとデミロマンティック? グレイロマンティック? ごく限られた一部の人にしか恋愛感情を抱かない人もいるって。だから葵さんも、もしかしたら結愛ちゃんと付き合ってたときは自分のことアロマンティックだと思ってたのかも」
「わけわかんない。要するに人はいつか必ず誰かを好きになるってことでしょ?」
半ば叫ぶみたいにして言うと、陽香がすっと顔を上げた。緊張した面持ちで私のほうを見て、それから小さな声で言う。
「結愛ちゃんはさ。いつか必ず男の人を好きになるよとか言われたらいやじゃない?」
反射的に反論しようとして口を開いて、何も出てこなかった。脳裏に浮かんだのは中学のとき好きだった女の子の声。
──たぶん気の迷いだよ。そのうちちゃんと男の子を好きになると思うよ。
何も、言えなくて唇を閉ざす。いやじゃない? そう、いやだった。尊厳を傷つけられたと思った。自分の存在そのものが否定されて、透明になっていく心地がした。
もし。本当に恋をしない人がいるのだとして。葵ちゃんも、少なくともあの時期はそうだったのだとして。私あのとき、なんて言ったっけ。
口元を手で覆う。うまく頭ははたらかなかった。呵責と自己弁護の声が私の内側でうるさく響く。
陽香は言葉を探すように視線をさまよわせて、それから「差し出がましいこと言ってごめん」と言った。その声が震えていたから、彼女もきっとこんなことは言いたくなかったんだろうなと思った。あんまり気の強い子じゃないというのは短い付き合いでもわかったから。
たぶん、嫌われる覚悟で言ってくれた。
私はかちこちにかたまった喉からなんとか「ありがとう」の言葉を引きずり出した。まだ頭ははたらかなかったけど、陽香をこわがらせたくないと思った。見て見ぬ振りしてもよかったのに、私と葵ちゃんの過去のすれ違いを放ってはおけなかった彼女の優しさをむげにはしたくなかった。
「わたし、そろそろ帰ろうかな」
気まずい沈黙の中で陽香が言う。私はうなずいて立ち上がった。そのままふたり、会話もなく階段を上る。河原町の駅へと向かう陽香の背中を見送って、私は反対方向へと歩き出した。
街はまだ仄暗かったけれど、四条大橋を渡りながら見上げた空にはすこしずつ朝の気配が迫りつつあった。
その日の夜、眠れなくて布団の中でスマホを手繰り寄せた。頭の中にはずっとひとつの考えが住み着いていた。
私は五年前、葵ちゃんに「好きな人を連れてきて」と言った。するとその一週間後、葵ちゃんは「付き合うことになった」と言ってあの男を連れてきた。でも、そんなにうまくいくもの?
この疑惑はもちろん当時からあった。私をあきらめさせるために葵ちゃんは適当な男を連れてきたんじゃないか。本当はあの男のことなんて好きでもなんでもないんじゃないか。何度も同じことを考えたし、その度にもうどうだっていい、私には関係のないことだと思考を放棄した。恋をしないと頑なに言い張っていた葵ちゃんにも好きな人ができた。それだけのことなのだと。
だけど、もし本当に葵ちゃんがアロマンティックというやつなのだとしたら。この疑惑は無視できない現実味を帯びてくる。
もちろん辻褄が合わない部分もある。アロマンティックだというなら今も付き合っているのはおかしいし、今度結婚するなんてもっとおかしい。陽香がちらりと言っていた、デミロマンティックというやつなのだと考えたほうがよほどしっくりくる。
それでも、だけど、と反論するもう一人の自分がいる。だけど、たとえば、うわべだけの恋人関係なのだとしたら? 私みたいに言い寄ってくる人間をかわすために、形だけの交際を続けていたのだとしたら。
私はむくりと体を起こしてリモコンで部屋の電気をつけた。スマホを操作してInstagramを開く。「設定」をタップし、ブロックしているアカウント一覧を開いた。
ブロックしているアカウントなんてそんなに多くはない。だから彼女のアカウントを見つけるのに、時間はまったくかからなかった。
アイコンはあのときから変わっていない。葵ちゃんらしいな、と思った。ユーザー名はたしか好きな映画のタイトルから取ったのだと言ってたっけ。そういえば私が葵ちゃんの好きな映画について聞いたのはそのときだけだ。何度か一緒に映画を見にいったのに、いつも私が自分の好みを押し付けるばかりで彼女の好みを知ろうとしなかった。
私は一度だって「葵ちゃんのことを教えて」と言っただろうか。私のことを知ってほしいと迫るばかりじゃなかったか。
深呼吸、ひとつ。
今更会ってなんになる、とささやく声が聞こえる。五年前のことを謝罪したい? 謝罪してほしい? わからない。ただ、赤く染まった陽香の目元が脳裏にちらついた。嫌われる覚悟で言いたくもないことを言ってくれた彼女の誠意に応えたいと思った。なにをどうすれば応えられるのかも皆目検討がつかなかったけれど。
だけど、たとえば、葵ちゃんとあの男がうわべだけの恋人なのだとしたら。もしかしたら私の一手で、陽香のことを救ってあげられるのかもしれない。漠然とした、そんな予感があった。
深呼吸を終えたら、あとは勢いだった。ブロックを取り消しDMのタブを開く。そして素早く文字を打ち込んで、推敲もせずに送信した。
『お久しぶり、結愛です。近いうちに会えませんか』
一度走り出したら、行きつく場所まで走るだけ。私たちはもうとうにその場所までたどり着いてしまったけれど。陽香たちはそうじゃない。崖っぷちの行き止まりなんかじゃない正しい結末が、陽香にはあるはずだった。
*
約束の十五分前に店に着いたのは、もし先に結愛が来て座っているのを見つけたら、そのままこわくて逃げ出してしまうかもしれないと思ったからだ。だって結愛が指定したのは五年前、絶縁のきっかけになったのと同じあのチェーンのコーヒーショップだったから。
会計を済ませて、コーヒーの乗ったトレイを手に二階に上がる。ここに来るのは五年ぶりだ。五年前、窓からは向かいのショッピングモールが見えた。だけど今そこにあるのは家電量販店だ。この五年でたくさんのものが変わった。決して変わらないと思っていたことも。
空いているテーブル席に腰を下ろし、コーヒーをすする。なにを話し出されるかわからないが、なににしろ心の準備をしなければと思った。
五年前のことは今でも後悔している。自分を守るために嘘をついて結愛を傷つけたこと。許されるのなら謝罪したかった。だけど、謝罪するには今のあたしたちの状況が邪魔をする。あたしは、あのとき結愛の前に連れ出した男の子と婚約しているのだ。実は好きな子ができたなんて嘘だったんです、と真実を述べたところで、じゃあなんで結婚するのと問われればうまく説明できない。
違う、説明して「理解できない」と一蹴されるのがこわい。
五年経って、あの子があたしに残した傷はほとんどふさがった。「誰だって誰かを好きになる」という言葉も、今思い出したとてかすかな懐かしさを覚えるだけだ。だけど今、同じところに同じ傷を受けて、それでも笑っていられる自信はあんまりなかった。
はあ、とため息をついたところで目の前に影が落ちる。ああ、来たな。息を吸って、それから顔を上げる。緊張した面持ちの結愛が「葵ちゃん、待たせてごめん」と言った。
「ぜんぜん待ってへんよ。まだ約束の五分前やん。あたしが早すぎただけ」
思ったより自然な声が出た。あたしも緊張はしていたけれど、それ以上に緊張している結愛を見たらなんだか吹き飛んでしまったのだ。
結愛はトレイをテーブルに置くと、コートを脱いであたしの前に座った。あたしはなにを話していいのかわからなかったからその間黙っていた。
「久しぶりだよね」
腰を落ち着けた結愛が言う。あたしはうなずいた。
「元気にしとった?」
「うん。葵ちゃんと別れてから、もう身近で恋人探すのやめようと思ったの。それからずっとビアンオンリーの街コンとか、アプリとか使って。何人か付き合ったよ。初めて両思いってやつ経験した」
ほ、と安心の吐息がもれた。言外に責められていたのかもしれない。けれど、それよりも幸せになりたい、好きな人の恋人になりたいと泣きそうな顔で言った結愛が、ちゃんとその「幸せ」にたどりついたことを祝福したかった。
「そう。よかった」
「葵ちゃんはもうすぐ結婚するんだって」
驚いて結愛の顔を見る。結愛はやっぱりひどく緊張していた。
「たまたまね。葵ちゃんの恋人の幼馴染と友だちになって。その子が教えてくれた」
「幼馴染って、陽香ちゃん」
「そう」
そうか、陽香ちゃん経由であたしに辿り着いて、それで急に会いたいと。結愛があたしを呼び出した真意はいまだにわからなかったけれど、少なくともきっかけはわかった。
それにしてもまさか陽香ちゃんと結愛がつながるなんて。そういえば同じ大学だったっけ。だとしても奇妙な縁だ。あたしは不思議な気持ちでカップを持ち上げた。
「葵ちゃん」
カップに口をつける前に結愛に呼びかけられた。その声がいっとう緊張していて、その顔がひどく真剣だったから、あたしはカップをそのままソーサーに戻した。結愛の喉がごくりと動いたのがわかった。
「峰岸和斗のこと、好きなの」
その問いになんと答えるのが正解なのか、すぐにはわからなかった。
もちろん。好きに決まってるやん。そう答えるのがきっと簡単だっただろう。あたしと和くんはこれまでも恋人を演じてきた。ここでもそうするだけだ。それはなにもむずかしいことじゃない。
だけど、もう結愛に嘘はつきたくなかった。
あの日の結愛の涙がずっと心臓に突き刺さっていた。結愛に傷つけられたことよりも、結愛を傷つけたことのほうがずっと痛くて、何度も後悔して。だからもうあのときと同じことは繰り返したくなかった。結愛に対して誠実でいたいと思った、あの日の自分をもう裏切りたくなかった。
一度視線を伏せる。そっと息を吸う。もし理解されなかったら? また否定されたら? そう問いかけてくる不安げな瞳の自分に、あたしはかすかに微笑みを返した。
あのころはまだ、自分が欠落した人間だと思い込んでいた。だからなじられれば痛かった。だけど今は違う。あたしはもう、自分のあり方に胸を張っていられる。和くんがいたから。和くんの隣で生きることがあたしの背筋を伸ばさせた。
だから大丈夫。
「好きちゃうよ。あたし、恋はせえへんから」
顔を上げて、背筋を伸ばして。あたしははっきりそう言った。
そのときの結愛の表情がなにを意味するのか、あたしにはわからなかった。結愛は大きく息を吐いて二度うなずいた。それから「そっか」と短く言う。
「うん。ごめん、結愛。嘘やってん。好きな人ができたって。結愛にあきらめてほしくて嘘ついた」
まっすぐ目を見てもう一度「ごめん」と言うと、結愛は目を反らした。軽く唇を噛んで、それから口を開く。
「アロマンティックってやつなの」
あたしはまたびっくりして、けれどすぐに「うん」と言った。知らずのうちに息を飲む。結愛はテーブルの上の抹茶ラテに視線を投げて、すこしの間黙っていた。そんなに長い時間じゃなかったけれど、あたしにはひどく長く感じられた。やがて結愛が震える声で言った。
「わかんないよ」
ああ、そうか、やっぱり理解してはくれないんだ。
でもいい。それでもいい、理解してくれないのだとしても知ってもらうことはできる。あたしのような人間がいるということ。だから大丈夫、こんなところでくじけるな、胸を張れ。そう言い聞かせてあたしは息を吸った。けれどあたしが声を出すより早く結愛が言葉を続けた。
「だってあのころ、葵ちゃんそんなの教えてくれなかったじゃん。『恋をしない』だけじゃわかんないよ。ちゃんとそういうセクシュアリティなんだって、説明してくれなきゃわかんない」
そのとき、あたしの胸に鈍く後悔が響いた。なにか硬いもので殴りつけられたような後悔だった。
あのころのあたしは、友だちにも親にも否定されて理解されることをあきらめていた。どうせ誰にもわかってもらえない。どうせみんな否定する。そんな殻に閉じこもって自分をわかってもらおうとしなかった。自分を説明する手間を惜しんだ。
そうだ、わかってもらえるはずなんてなかったんだ。拒絶していたのはあたしのほうだったんだから。
「私も頭かたいから、もしかしたら説明されてもそんなのありえないって突っぱねちゃったかもしれないけど。だったら私が納得するまで説明してよ。葵ちゃんあのとき、喧嘩させてもくれなかったじゃない」
言いながら結愛の声が涙にぬれていく。あたしは「ごめん」と言った。ほかの言葉は見つからなかった。
「ごめん、結愛。結愛の言う通りや」
結愛がそろりと顔を上げる。目が合った。彼女の頬を涙が一筋流れていくのが見えた。結愛はぎゅっと眉根を寄せて、それからちいさな声で言った。
「私もごめん」
わだかまりが溶けていく。絡まった糸がほどけていく。行き止まりでどこへも行けなくなったあたしたちにも、まだこんな続きがあったんだと思った。いいや、あたしが勝手に行き止まりだと思っていただけで、道はきっと最初からあったのだ。
涙をハンカチでぬぐって、結愛はひとくち抹茶ラテを飲んだ。それから顔を上げて「さっきの話の続きなんだけど」と切り出す。
「峰岸和斗は、葵ちゃんのこと好きなの」
突然変わった風向きがなにを示すのか、一瞬わからなかった。理解が追い付いたのは一拍あとだ。
陽香ちゃんと関連しているのだ。
詳しいことはわからない。けれど和くんが結婚すると聞いて陽香ちゃんは泣きすがったのだという。結愛もそれを知って、あたしに会いに来た。
すっと背筋に緊張が走る。
「ううん。利害が一致したから付き合っとるだけ」
「峰岸和斗に好きな人はいないの?」
「さすがにそんなことまでは知らんかな」
もちろん知っていたけれど、あまりに個人的な話だ。他人にもらしていいことじゃない。それに和くんの気持ちを知った結愛が陽香ちゃんにリークしない保証はない。和くんの気持ちが陽香ちゃんにばれることだけは絶対に阻止しなくてはならないのだ。
結愛はやはりじっとあたしを見ていた。それから言う。
「でも葵ちゃん、陽香のこと知ってたでしょ。ってことは峰岸和斗は葵ちゃんに陽香の話をよくしてたんだ。違う?」
「そういう幼馴染がおるって話くらいは聞いたことあるよ」
笑ってはぐらかすと、結愛は唇をへの字に曲げた。それからちいさくうなって、きっとあたしをにらみつける。
「わかった。まどろっこしいのはやめる」
なにがなんだかわからなくて、あたしは笑ったままなにも言えない。結愛は居住まいを正してあたしに向きなおった。
「葵ちゃん。お願いがあるの」
