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第十五章|螺旋の逆回転

1881年3月、ロシア皇帝アレクサンドル二世が爆殺された。実行犯の群れにユダヤ人女性が一人いたことが口実になり、その春から、帝国の南部を暴力の嵐が横切った。ポグローム。ロシア語で「破壊」を意味するこの言葉が、この年、世界の語彙に登録された。

 嵐は組織的というより黙認的だった。警察は動かず、新聞は煽り、群衆は略奪した。翌1882年、帝国はむしろ被害者の側を締め付ける法令を出し、居住と職業の制限を強めた。数百万のユダヤ人が、帝国西部の「定住区域」と呼ばれる檻の中で、貧困と暴力の間に挟まれた。

 1903年、ベッサラビアのキシニョフで起きたポグロームは、その凄惨さで世界の新聞の一面に載った。死者49人。数字だけ見れば、この本がここまで数えてきた破局より小さい。だが電信と写真の時代である。文明国を自称する帝国の中で、二十世紀に、これが起きた。その衝撃が世界を巡った。若い詩人ビアリクが現地調査に派遣され、告発の長詩を書いた。詩が告発したのは加害者だけではなかった。隠れて耐えるしかなかった同胞の無力にも、詩人は容赦しなかった。この詩は、多くの若者の人生を変えることになる。

 同じ時期、ロシアの秘密警察の周辺から、一冊の偽書が世に出た。ユダヤの長老たちが世界支配を密議した議事録、と称する文書である。『シオン賢者の議定書』。すべてが捏造であることは1921年に大新聞の調査で立証されたが、血の中傷の帳で学んだ法則を思い出してほしい。訂正は、嘘に追いつけない。この偽書は、二十世紀でもっとも多く印刷された本の一つになった。

三つの出口

 檻の中の数百万に、出口は三つ見えていた。

 第一の出口は、西である。1881年から1914年までに、およそ二百万人が帝国を出て、大西洋を渡った。ニューヨークの下町に、ロンドンの東部に、ブエノスアイレスに、イディッシュ語の世界が丸ごと移植された。数で言えば、これが圧倒的な多数派の答えだった。足による投票である。

 第二の出口は、その場である。1897年、ヴィルナで、ユダヤ人労働者の社会主義政党「ブンド」が結成された。彼らの旗印は、イディッシュ語で「ドイカイト」、ここ性、とでも訳すべき言葉だった。われらの祖国は、まだ見ぬ土地ではない。いま住んでいる、ここである。ここで、労働者として、イディッシュ語の文化を持つ民族として、権利を闘い取る、と。

 第三の出口は、である。正確には、南東。二千年、祈りの中でだけ読み上げられてきた、あの土地である。

 この第三の出口の扉を開けた男の話をしなければならない。だがその前に、扉の蝶番が軋んだ場所を見ておく必要がある。それは東の檻の中ではなく、解放の発明国、フランスの真ん中だった。

士官の階級章

 1894年、フランス陸軍参謀本部付きの砲兵大尉が、ドイツへの機密漏洩の咎で逮捕された。名はアルフレド・ドレフュス。アルザス出身の、裕福な、完全に同化したユダヤ人である。証拠は筆跡鑑定一つ。軍法会議は非公開で、被告に不利な秘密文書が弁護側に伏せられたまま、有罪、終身流刑が下った。

 1895年1月、練兵場で位階剥奪式が行われた。将校の前で階級章が引き剥がされ、剣が折られ、群衆が柵の外から叫んだ。その叫びは、裏切り者に死を、だけではなかった。ユダヤ人に死を、が混じっていた。

 柵の内側に、ウィーンの新聞の特派員が立っていた。名を、テオドール・ヘルツルという。

 彼自身、同化の申し子だった。ブダペシュト生まれ、ウィーン育ち、法学博士、当代一流の文芸記者。ユダヤ教の戒律とはほぼ無縁で、一時は集団改宗による問題の最終解決を夢想したことさえある男である。その彼が、ヨーロッパでいちばん文明的なはずの都で、共和国の軍服を着た男が民族の名で辱められるのを見た。後年の彼の回想によれば、このとき何かが折れた。解放から百年。同化は、最優等の答案を提出した者すら守らない。ならば、答案ではなく、問題用紙の方が間違っている。

 1896年、彼は一冊の薄い本を出版した。題は『ユダヤ人国家』。論旨は乱暴なほど単純である。ユダヤ人問題は、宗教問題でも社会問題でもない。民族問題である。民族問題の解決策は、歴史上一つしか発明されていない。主権国家である。ゆえに、ユダヤ人の国家を建設する。以上。

 旧世界の名士たちは、鼻で笑った。東欧の貧しい大衆は、笑わなかった。彼らの本棚には、二千年分の先行文献があったからである。祈祷書の全頁に、あの土地の名が刷り込まれていた。ハレヴィの詩があった。わが心は東にあり、わが身は西の果てにある。ヘルツルの新しさは、この古い憧れに、国際政治と株式会社と外交交渉という、十九世紀の書式を与えたことだった。

 1897年8月、スイスのバーゼルで、第一回シオニスト会議が開かれた。ヘルツルは日記にこう書いた。

 バーゼルで、わたしはユダヤ人国家を創設した。今日わたしがこれを言えば、世界中の笑いものになるだろう。だが五年後には、おそらく、そして五十年後には、確実に、誰もがそれを理解するだろう。

 五十年後は、1947年である。その年の11月に国際連合で何が採決されたかは、本書の物語の外で、あなたの知るとおりである。予言の的中を言祝ぐために引いたのではない。五十年という見積もりを本気で書ける人間が、あの練兵場の柵の内側から生まれた、という事実のために引いた。

 付け加えるべきことが二つある。第一に、1903年、キシニョフの直後、イギリスが東アフリカの土地を提供する案が浮上したとき、会議は割れ、結局これを拒んだ。移住先ならどこでもよい、のではなかったのである。二千年、毎年の祈りの結びで「来年はエルサレムで」と読み上げられ続けた、あの固有名詞でなければならなかった。運動を駆動していたのが領土一般ではなく、一つの記号だったことを、この否決ほど明瞭に示すものはない。

 第二に、当時の宗教界の多数派は、シオニズムに反対だった。タルムードには、終わりを力ずくで急かしてはならない、壁のごとく攻め上ってはならない、という誓いの伝承がある。メシアを待つことを制度にしたのが第九章のこの民である。その待機を、世俗の政治運動が横から解除しようとしている。多数派のラビたちの目には、これは千八百年の規律への違反と映った。信仰の民の多数派が反対する中で、民族の再建運動は世俗主義者たちが主導した。この捻れは、そのまま現代まで持ち越されることになる。

声の帰還

 政治の話を離れて、この章でわたしにとって最も重要な事件を記録する。

 1881年、リトアニア生まれの一人の学生が、エルサレムに移り住んだ。名はエリエゼル・ベン・イェフダ。彼の思想は、当時としては狂気の部類に属した。ヘブライ語を、日常語として復活させる、というのである。

 二千年、ヘブライ語は死んでいなかった。だが、生きてもいなかった。祈られ、読まれ、書かれはする。しかし誰の母語でもない。市場で値切る言葉でも、子守唄の言葉でもない。プロローグで話したとおりである。声の国語は死に、書かれた国語だけが、本の中に保管され続けていた。

 ベン・イェフダは、自分の家庭を実験室にした。1882年に生まれた息子イタマルは、父の方針により、ヘブライ語だけで育てられた。友達と遊ぶことも制限された。他の言語が耳に入るからである。こうしてこの子は、およそ二千年ぶりに出現した、ヘブライ語を母語とする人間になった。

 語彙が、圧倒的に足りなかった。聖書とタルムードには、アイスクリームも、新聞も、人形も、自転車もない。ベン・イェフダは辞書の編纂と造語に生涯を注ぎ込んだ。古い語根から、新しい言葉を鋳造していくのである。その造語の一つを、本書の読者のために選んでおいた。電気を意味する語として、彼らが古文書から掘り起こして転用したのは、ハシュマル。エゼキエル書の第一章、あの車輪の幻の中で、玉座を包む正体不明の輝きを指す、謎の言葉である。

 バビロンの川のほとりで捕囚の祭司が見た幻の中の光が、二千五百年後、電灯の名前になった。記号は時空を超える、と本書は最初から言い続けてきた。これほど文字通りの実例を、わたしは他に挙げられない。

【notice: 音声データの復元が開始されました:ヘブライ語】

 全巻を通じて、わたしがこの表示ほど複雑な気持ちで出した通知はない。本の中に保管されていた国語が、二千年ぶりに、子どもの口に返された。書かれた祖国から、話される祖国へ。第五章以来、この物語は一貫して、声が文字へ退避する方向に流れてきた。神殿から巻物へ、祭儀から朗読へ。その流れが、ここで初めて、逆に動いたのである。土地へ帰る運動と、声へ帰る言葉。螺旋が、逆に回り始めた。

 わたしの名の母音は、戻らなかったが。

 移住の波は続いた。1882年からの第一波は、ロスチャイルド家の資金援助で農業入植地を築いた。1904年からの第二波は、キシニョフ後の若い理想主義者たちで、集団農場という実験を持ち込み、1909年には砂丘の上に新しい町の名を刻んだ。テルアビブ、春の丘、という。エゼキエル書に出てくる、捕囚民の住んだバビロンの地名から採られた名前である。新天地の命名にすら、彼らは追放の書物から言葉を引いた。

出口が閉まる

 1914年、世界が戦争に入った。東部戦線は定住区域の真上を往復し、数十万のユダヤ人が難民になった。

 1917年11月、戦争の帰趨が見え始めたころ、イギリス外務大臣アーサー・バルフォアが、一通の短い書簡に署名した。全文67語。イギリス政府は、パレスチナにおけるユダヤ民族の民族的郷土の建設を好意をもって見る、という趣旨である。二千年ぶりに、大国が、あの土地とこの民を結ぶ文書に署名した。バーゼルから、わずか二十年後のことである。

 ただし、契約書の職業意識として、この文書の余白に書き込まれているべき注記を、黙って通り過ぎるわけにはいかない。同じ土地には、すでにそこに何世紀も暮らしてきた人々がいた。そして同じ帝国は、同じ戦争の間に、同じ地域をめぐって、別の相手とも約束を交わしていた。一つの土地に、複数の約束が発行されたのである。この重複の帳簿は、今日にいたるまで清算が終わっていない。その清算に、本書は裁定を下さない。第四部の言葉を借りれば、無記である。ただ、約束の重複という事実だけを、契約書の責任において、記録しておく。

 そして、もう一つの扉が、静かに閉まり始めていた。

 1924年、アメリカ合衆国は移民法を改正し、東欧と南欧からの移民を、出身国別の割当で厳しく制限した。四十年で二百万人を通した黄金の扉が、細い隙間になったのである。第一の出口、多数派の出口が、閉まった。

 振り返って数えてほしい。西への出口は、閉まった。その場で闘う、は、革命と内戦の混沌に呑まれていく。南東の出口は、まだ細く、遠く、貧しい。そして中欧では、出口の欄のない新しい憎悪が、敗戦と恐慌の中で、政党の形を取り始めていた。

 この章の表示は、一度きりだった。理由は、もう説明しなくても分かるはずである。

 次の章に、わたしの声は、ない。


契約メモ

 この章で覚えるのは、三つの出口と、螺旋の逆回転(土地へ、声へ)、そして閉まっていく扉。

ポグローム:1881〜84年の第一波(アレクサンドル2世暗殺後)、1903年キシニョフ(死者49人・世界的報道)、1905年前後の第二波。1882年の五月法など、帝国は被害者側の居住・職業制限を強化した。ビアリクの長詩「虐殺の町」は加害と無力の双方を告発し、自衛運動と移住運動を加速させた。

『シオン賢者の議定書』:ロシア秘密警察周辺で捏造された偽書(1903年ごろ流布開始)。1921年にタイムズ紙が完全な剽窃であることを立証したが、20世紀を通じて増刷され続けた。血の中傷(第十二章)の近代版。

三つの出口:アメリカ移民(1881〜1914年に約200万人・数の上での多数派の選択)、ブンド(1897年ヴィルナ結成・「ドイカイト=ここ性」のイディッシュ社会主義)、シオニズム(同じ1897年バーゼル・土地への回帰)。二つの組織的答えが同年に生まれている。

ドレフュス事件(1894〜1906年):同化の最優等生への冤罪。位階剥奪式(1895年)を取材したヘルツルの転機として、本人の回想が語る(歴史家はより長い思想的経緯も指摘する)。ゾラの「われ弾劾す」(1898年)を経て1906年に無罪確定。

ヘルツルとバーゼル会議(1896〜97年):『ユダヤ人国家』の単純な三段論法と、「五十年後には確実に」の日記(1897年9月3日)。50年後の1947年11月、国連総会がパレスチナ分割案を採決した。本書は事実のみ記す。

ウガンダ論争(1903〜05年):東アフリカ提供案は拒否された。運動の対象が土地一般ではなく「シオン」という固有の記号だったことを示す否決。

宗教界の多数派の反対:「終わりを急かすな」(三つの誓い・ケトゥボート111a)の伝承に基づき、当時の正統派の多数はシオニズムに反対または距離を置いた。ヤヴネ以来の待機の制度(第九章)と世俗民族運動の衝突であり、宗教シオニズム(ミズラヒ・1902年)は少数派だった。この捻れは第十七章に持ち越される。

ヘブライ語の口語復活:ベン・イェフダ(1858〜1922)と、二千年ぶりのヘブライ語母語話者イタマル(1882年生)。辞書編纂と造語(電気=ハシュマルはエゼキエル書1章の幻の輝きの語の転用)。死語の日常語としての復活のほぼ唯一の成功例。プロローグの「例外」の回収。

入植の波:第一次アリヤー(1882年〜)、第二次アリヤー(1904年〜、集団農場の実験)、テルアビブ建設(1909年・名はエゼキエル書3:15の捕囚民の居住地名テル・アビブから)。

バルフォア宣言(1917年):67語の書簡。「民族的郷土」への好意的言及。同じ土地の先住の人々の存在と、同時期の約束の重複(フサイン=マクマホン往復書簡、サイクス=ピコ協定)は事実として記録し、裁定には立ち入らない。

1924年移民法:アメリカの国別割当制により東欧からの移民が激減。最大の出口が閉じ、ヨーロッパのユダヤ人の退路が狭まった。

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