「外の世界を知る」という言葉の、本当の意味について
アニメーターの薄給は「突然の問題」ではない
アニメーターが薄給だという話は、最近になって急に可視化された問題ではない。
少なくとも90年代頃から、制作現場の賃金や労働条件が厳しいことは、業界内部や周辺コミュニティでは広く知られていた。
「好きじゃなきゃ続かない」
「食えない」
「若いうちに潰れる人が多い」
こうした話は、警告というより前提として共有されていたと思う。
構造が変わらなかった理由
それでも構造は長く変わらなかったし、今も大きくは変わっていない。
制作委員会方式、国内マス向け、TV放送前提、広告モデル。
この仕組みでは、制作費が最初から圧迫され、人件費が最後に回されるのはある意味で必然だった。
よく語られる「手塚治虫が安値で請けたから業界が壊れた」という話も、完全な間違いではないが、かなり単純化されている。
問題は誰か一人の判断ではなく、低予算モデルが成功体験として固定され、再設計されないまま使われ続けたことだと思う。
ここまでは、あくまで構造の話だ。
「知らなかった」は成立しにくい
この話を「搾取されている」「可哀想だ」という感情論だけで終わらせてしまうと、重要な点が抜け落ちる。
薄給であることは、少なくとも長い間「知られていた」。
だから「そんな結末になるとは知らなかった」という言い方は、どうしても苦しい。
これは誰かを責めるための話ではない。
ただ、事実としてそうだった、というだけだ。
分岐は狭かったが、存在はしていた
もちろん、別の道を選ぶのは簡単ではなかった。
学生という身分を選んだ時点で、正規ルートに乗り、安全は確保される代わりに、分岐はかなり見えにくくなる。
海外を焦点にする、少数精鋭で回す、IPを自分で持つ。
そうした選択肢は、当時の多くの学生にとって現実的とは言い難かったのも事実だ。
ただ、それでも「不可能」だったわけではない。
実際に、一定数は外に出た人がいる。
これは才能や頭の良さの話というより、
環境、外部との接触、そして思考の問題だったと思う。
正規ルートの性質について
ここで言いたいのは、「もっと努力しろ」という話ではない。
また「外に出られなかった人が悪い」と言いたいわけでもない。
正規ルートは安全だ。
その代わり、結果を自分で操作することはできない。
これは良い・悪いの話ではなく、性質の話だ。
結果を操作したいなら、どこかで「今いる世界が唯一ではない」と知る必要がある。
「外の世界を知る」とは何か
それが、よく言われる「外の世界を知る」という言葉の、本当の意味だと思っている。
海外に行くことでも、人脈を作ることでもない。
まず必要なのは、今いる場所を一度、外側から見ることだ。
行動よりも先に、視点がある。
自分自身の立ち位置について
ちなみに自分自身は、海外に出たわけでも、業界外と積極的に交流してきたわけでもない。
むしろ外部接触は苦手で、かなりの部分を脳内で補完してきた側だと思う。
それでも、「ここだけが世界ではない」と俯瞰することはできた。
外に出ることよりも、外を想定して考えることの方が、先に必要だったからだ。
若い人へ
だから若い人には、「外の世界を知れ」という言葉を、行動論や成功論ではなく、視点の話として受け取ってほしい。
安全を選ぶのも自由だ。
ただ、その選択がもたらす結果まで含めて、自分のものになる。
それだけの話だと思っている。
