自立とは依存を認識することである
「自立しなさい」
誰もが一度は聞いたことがある言葉だろう。
自立とは何だろうか。
実家を出ることだろうか。
働くことだろうか。
家族を養うことだろうか。
世間ではそう考えられているように思う。
しかし私は最近、自立という言葉に違和感を覚えている。
なぜなら、そうした条件を満たしていても、人は決して一人では生きていないからだ。
会社員は会社に依存している。
経営者は顧客に依存している。
親は子供に影響される。
子供は親に影響される。
私たちは道路を使い、水道を使い、電気を使い、社会保障を使う。
完全に独立した人間など存在しない。
にもかかわらず、人はしばしば
「私は自立している」
と言う。
私はその言葉にどこか引っかかる。
私自身も自立しているとは思わない。
妻に支えられている。
子供に影響されている。
社会の仕組みに支えられている。
過去に出会った人々の影響を受けている。
今こうして文章を書いていることさえ、多くの人々の営みの上に成り立っている。
だから私は、
「依存していない状態」
を自立とは呼べないと思っている。
では自立とは何か。
私なりの結論はこうだ。
自立とは、
依存をなくすことではない。
依存を認識することである。
何に支えられているのか。
誰に助けられているのか。
何が失われたら困るのか。
どこまでが自分の責任で、
どこからが他者の支援なのか。
それを認識している状態。
私はそれを自立と呼びたい。
依存は悪ではない。
むしろ人間は依存なしでは生きられない。
問題は、
依存していることを認識していないことである。
支えられていることを認識していなければ、
支えが失われた時に初めて混乱する。
自分の力だけで成り立っていると思っていれば、
失った時に初めて現実を見ることになる。
だから依存そのものよりも、
依存を認識していない状態の方が危うい。
私は自立していない。
そしておそらく誰も完全には自立していない。
だからこそ、
自立とは孤独になることではなく、
自分が何によって支えられているのかを知ることなのだと思う。
依存を否定することではない。
依存を認識すること。
それが私の考える自立である。
