線引
市役所に勤めて3年目。異動で福祉課に配属された青年職員は、日々「制度の線引き」に直面していた。
「あなたは対象外です」
その言葉を口にするたび、胸の奥に何かが沈む。
支援を求めてやってくる市民の声は、書類や数字の前で、次第にかき消されていく。
声をあげられない人。
あげても届かない人。
制度は彼らを「困っていないことにする」。
そして、自分はその境界を守る者になっていた。
ある日、再び窓口に現れた一人の母親との再会が、彼の内面に小さなひびを入れる。
決して悪ではないはずの制度。
だが、その「正しさ」が誰かを押し潰していく現実。
答えのない問いを抱えたまま、彼は“制度の外側”で声を拾う人たちと出会っていく。
守るべきは、線か、人か。
制度のこちら側にいながら、それでも“揺らぎ”を手放さずに生きるとは、どういうことか。
これは、誰かを助けたいと願いながら、
「助けられない側」に立ち続けた、ひとりの地方公務員の記録である。
#創作大賞2025
第1章:守ることと、守られること
「……支援の対象には、該当しないようです」
その言葉を口にするたび、どこか喉の奥が詰まるような感覚がする。
市役所福祉課に異動して、三ヶ月が過ぎた。
前の部署は住民票や印鑑証明を扱う窓口だった。形式はあっても、感情の揺れは少なかった。
けれど今は違う。
ここには、生活の綱が切れかけた人たちが、毎日やってくる。
「正社員として勤務されていて、保育園も継続中とのことですので……今回の臨時支援金には該当しません」
そう伝えた相手の女性は、一瞬だけ小さく瞬きをして、それから曖昧に笑った。
「そうですよね。すみません、なんか……来てしまって」
違う。
“すみません”って言うのは、俺のほうだ。
でも言葉は出てこない。マニュアルには、“共感を示しつつ制度の説明を徹底すること”とだけ書かれている。
──守るべきものは、制度か、人か。
まだ自分の中で答えは出ない。
職場に戻ると、先輩の藤井さんが声をかけてきた。
「今の人、子ども1人で正社員だって? それならまあ、条件は厳しいわな」
「……ええ、ただ、生活はギリギリみたいでした」
「みんなギリギリよ。でも、それを一人ずつ拾ってたら制度が崩れる」
正論だ。わかっている。
制度は“線引き”だ。助ける人を決めるということは、助けない人を決めるということでもある。
それでも、あの人の表情が頭から離れない。
「“困ってる”って、どう定義すればいいんでしょうか」
つい、そんな言葉が口をついた。
藤井さんは少しだけ眉をひそめて、でも責めるでもなく言った。
「それを決めるのは、あなたじゃないよ。
……今の君の立場じゃ、“まあいいか”は通らない。わかるでしょ?」
はい、と答えるしかなかった。
でも、ふと頭の中に浮かんだ。
“わかっている”と、“納得する”は、違う。
俺はまだ、この制度の中で、“誰を守っているのか”すら分からない。
第2章:沈んでいく声
午後三時を過ぎると、窓口は少し静かになる。
対応を終えた書類を整理していると、斜め向かいの席から小さくため息が聞こえた。
隣の机で対応していたのは、子育て支援課から兼務で来ている女性職員──山岡さん。40代後半で、同じフロアの誰よりも「人の顔を見て話す人」だった。
「……あの人も、ダメだったね」
そうつぶやくように言って、山岡さんは一枚の申請用紙をファイルに綴じた。
「シングルマザー。子ども二人。下の子はまだ保育園。
でも、児童扶養手当がギリギリ減額ラインに届かなくて。
“安定してる”って、システムは判断するのよ」
「“安定”って、なんなんでしょうね……」
俺の口から、またしても制度外の言葉がこぼれた。
山岡さんは、少しだけ目を細めて俺を見た。
「……そう思っても、声に出せるの、あなただけよ。
みんな思ってるけど、もう慣れてしまったの。
“沈んでいく声”に、耳をふさぐことに」
夜、家に帰ってからも、今日の相談者のことが頭に残っていた。
「困ってる」と声に出せなかった人。
「支援に行ったけど、断られました」と笑っていた人。
“選ばれなかった人たち”の中には、もう声を出さなくなった人もいる。
一度断られたら、もう来ない。もう尋ねない。もう諦める。
でも、それで本当に「支援の必要がない」と言えるのか?
寝る前にSNSを見ていたら、ある匿名投稿が目に留まった。
「支援って、声をあげる元気がある人しか受けられない。
本当に限界の人は、“説明する”余裕すらないんだよ」
スマホを伏せて、部屋の天井を見上げた。
あの窓口に来てくれる人たちは、まだ声がある人たちだったんだ。
だけど、その声がいつまでも残っているとは限らない。
制度は、数字で選ぶ。
でも、声は数字にならない。
そして俺は、“沈んでいく声”を今日も見送った。
第3章:制度という正しさ
「これは“制度”ですから」
その言葉を、何度聞いただろうか。
そして、何度、自分の口からもこぼれただろうか。
福祉課の会議室。月に一度の「支援制度運用ミーティング」が行われていた。
議題は、新年度から導入される新たな助成金の基準について。
俺はメモを取りながら、黙って話を聞いていた。
「収入の上限は前年度と同じく、年収300万円以下。扶養家族の有無による加算は検討中です」
淡々とした口調の係長が、資料を読み上げる。
手元の資料には、いくつもの“線”が引かれている。
支援の対象となる世帯と、そうでない世帯を分ける境界線。
「……ただ、例年通り、“例外規定は原則なし”で進めましょう。
“例外”を許すと、現場で恣意的な判断が増えてしまいますからね」
その瞬間、誰もが静かに頷いた。
制度の“正しさ”は、揺るがない。
それが、この場の空気だった。
会議後、机に戻ってパソコンを開く。
先週対応した申請者のメモが画面に残っていた。
名前も、住所も、必要な書類も、すべて揃っていた。
ただ一つ、足りなかったのは「300万円以下」という数字だった。
年収302万円。わずか月額1,600円オーバー。
でも、その数字だけで彼女は“支援対象外”となった。
「2,000円分の子ども服を買うのに、10分迷うような生活なんです」
その言葉を思い出すたび、胸の奥が鈍く痛む。
数字は嘘をつかない。
でも、真実も語らない。
俺たちは、「平等」と「正確さ」という名の下に、誰かの現実を切り落としている。
定時を過ぎたオフィス。
書類整理をしていると、藤井さんが言った。
「新人の頃さ、“なんでこの人が対象外なんだろう”って毎日思ってたよ」
「今は、思わないんですか?」
「思ってる。でも……俺たちにできることって、制度の範囲内で、できる限り寄り添うことくらいだ。
“正しさ”からはみ出た思いやりって、案外すぐに責任になるからね」
笑っていたけど、その表情には、もう悩み疲れた人の影があった。
制度は正しい。でも、正しいだけでは、人は救えない。
だから俺はまだ、揺れている。
この“正しさ”を、信じきることができないまま。
第4章:境界の向こう側
その人は、どこか見覚えのある顔だった。
昼休憩が終わる頃、窓口に現れたのは、以前“対象外”と伝えた女性だった。
名前を確認しなくても、忘れられるはずがなかった。
保育園に通う子どもを抱えながら、「毎日が綱渡りなんです」と小さく笑っていた、あの人だ。
「……あの、すみません。前に来たんですけど、また状況が変わってしまって」
声はかすれ、手元の書類は少し震えていた。
「子どもが体調を崩して……休みが続いたら、シフトを減らされてしまって。
それで、今月は収入ががくっと下がって……もしかしたら、今回は対象になるかもって……」
──見落とされた声は、時差で沈む。
それを、今目の前で見ている気がした。
パソコンに数字を入力しながら、心がざわついていた。
“今月の収入”だけなら、確かに基準を下回っている。
だが制度は、**「年間収入」**をベースにしている。
この1ヶ月だけの下落では、要件を満たさない可能性が高かった。
「少し、確認に時間をください」
そう伝えて席を立つと、上司の藤井さんのもとへ向かった。
「月収で見ればギリギリ基準内。でも年間だと微妙。……多分、難しいね」
藤井さんの答えは予想通りだった。
俺は、つい口走った。
「でも、じゃあ彼女はいつ支援されるんですか。
“苦しい”って今言ってるのに、“年間では大丈夫”だからって、切り捨てていいんですか」
藤井さんはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと言った。
「……切り捨ててるんじゃない。
“拾える数”が、初めから決まってるんだよ。
線を引くって、そういうことだ」
窓口に戻ると、彼女は下を向いてスマホを見ていた。
画面には“フリマアプリ”の出品ページ。子どもの洋服が並んでいる。
「お待たせしました……」
言いながら、言葉が喉につかえた。
“また、対象外です”とは、どうしても言えなかった。
でも、言わなければ、職務放棄だ。
制度は、“寄り添い”では動かない。
「……申し訳ありません。今回は……」
その先の言葉は、彼女が先にかぶせてきた。
「……いいんです。分かってます。数字、ですもんね」
俺はただ、頷くことしかできなかった。
彼女は、笑わなかった。
ただ静かに、書類をしまって、立ち上がった。
その背中が、なぜか以前より小さく見えた。
俺はその日、窓口を見つめながら、ずっと考えていた。
“制度の内側”にいる自分と、
“境界の向こう側”にいる彼女たち。
あの一線は、ただの線ではない。
声の届く/届かない、生き延びられる/押し潰される、その分かれ目だった。
そして、俺はその線を、毎日引いている。
第5章:名前のない仕事
その人は、役所にはいなかった。
市民活動センターで開かれた地域福祉の意見交換会。
業務命令というより「ついで参加」という扱いで、上司から軽く言われて出席した会だった。
正直、最初はあまり気が乗らなかった。
けれど、会の後半、ある女性の話が始まったとき、空気が一変した。
「支援って、“困ってます”って言えない人をどう見つけるか、だと思うんです」
その女性──NPO法人の代表だという彼女は、落ち着いた声で、穏やかに語っていた。
「制度の中では“対象外”でも、明らかに生活がギリギリの人たちはいます。
でも彼らは、来ない。書類も書けない。時間も、余裕も、言葉も、もう残ってないから」
俺は思わず手を止めた。
その言葉が、誰かの顔と重なった。
「だから私たちは、月に何度か公園で“フリーカフェ”を開いています。
温かい飲み物を配って、話を聞くだけ。でも、その“だけ”が、意外と届くんです」
名前も肩書きもない場所で、声が交わされていた。
会の終了後、名刺交換を求める人々が女性のもとに集まっていた。
俺は一歩遅れて、声をかけた。
「市の福祉課で働いています。……今日のお話、すごく響きました」
彼女はふっと笑った。
「大変ですよね、窓口の仕事」
「はい……制度の“線”を守ることばかりで、それが逆に誰かを排除してるように思えて」
「思えて、じゃなくて。排除してますよ」
一瞬、胸が詰まった。でも、否定できなかった。
「……でも、制度って必要じゃないですか。公平に、効率よく、届けるために」
「もちろん。でも、制度は“線”なんです。
支えるには、“にじみ”や“はみ出し”を拾う人間が必要になる。
それが“名前のない仕事”です。制度には書かれていないけれど、なくしちゃいけないもの」
家に帰る途中、駅のホームで缶コーヒーを握りしめた。
ぬるくなった液体は、昼の窓口で手にした紙コップを思い出させた。
制度の中で働く俺。
制度の外で支え続ける人たち。
どちらが正しい、ではなかった。
ただ、“どちらも必要だ”という事実に、ようやく触れた気がした。
それでもなお、俺は思う。
制度そのものが、最初から“にじみ”を含む構造だったら──
声を出せない人を最初から織り込んでいたら、
誰かが沈む前に、支えられる社会になっていたんじゃないか。
それは、甘えだろうか。
それとも、問いかけすら許されないのが、この制度なのだろうか。
次の朝、俺は机に向かって制度マニュアルを開いた。
その中には、たしかに細かく“公平な条件”が並んでいた。
でも、そのどこにも、
“この人を助けたかった”という気持ちは、書かれていなかった。
第6章:線のこちら側で
「また対象外、ですか……」
昼下がり、窓口に来た年配の女性が、淡々とそう呟いた。
表情は驚くほど静かで、怒りも、悲しみもなかった。
ただ、あきらめだけが、淡い影のように顔に残っていた。
申請書の数字は、制度の基準をほんの少し超えていた。
去年は夫を亡くし、息子も遠方で頼れないという。
でも「配偶者の死亡から一年以内」の特例期間は、今月で終わっていた。
「……もう、いいです。ごめんなさい、来てしまって」
その言葉が、胸に刺さった。
“来てしまって”じゃない。
“来てくれて”なんだ。
けれど俺の口から出たのは、またしても「申し訳ありません」だった。
夜、残業の手を止め、窓の外を見た。
書類と数字に囲まれたこの部屋の中で、
俺は何を守ってきたんだろう。
制度か。公平か。線引きか。
それとも、自分の“正しさ”か。
翌朝、俺は小さな封筒を持って出勤した。
机に着く前に、隣の席の山岡さんに声をかけた。
「先日来た○○さん──もし、また窓口に来られたら、これを渡していただけますか」
差し出したのは、近くの地域カフェのチラシと、小さな手書きのメモだった。
「困っていること、よかったらここで話してみてください。
私たちは制度じゃないけど、“声”には応えたいと思ってます」
山岡さんは封筒を受け取りながら、少しだけ驚いたような顔をして、やがて頷いた。
「……あなた、変わったわね」
「いえ。きっと、まだ“制度の中”にいるだけです。でも……少しずつ、揺れてるだけです」
俺はまだ、公務員だ。
制度の中で、ルールのもとに働いている。
線を引くことをやめたわけじゃない。
でも、それでも。
その線のすぐそばに、小さな余白を置ける人間ではいたいと思う。
完全にはみ出すことはできない。
でも、“線のこちら側”で、誰かの沈黙を拾うくらいのことは、
きっと、許されるんじゃないかと思った。
そう、制度には書かれていないけれど、
人としてやれることは、まだ残っている。
今日もまた、窓口に誰かがやってくる。
「申し訳ありません」と言う自分が、
そのたびに、少しだけ揺れる。
少しだけ、立ち止まる。
それだけでも、何かが変わると信じたくて──
俺は今日も、この席に座っている。
