エンタメの境界について
——「テーマがある」と「エンタメである」は別の話
「この作品、テーマあるじゃん」
「作者の人生観が滲み出てるからエンタメだよね」という言い方を見かけた。
でも、違和感を感じた。
テーマがあることと、エンタメであることは、同じなのか?
「テーマがある」の正体
多くの場合、
「テーマがある」と言われているものの正体は、
スカッとした
泣けた
救われた気がした
こうだったらいいのに、と思えた
こうした感情の処理結果だと思う。
これは悪いことではない。
むしろ、多くの人に必要な機能だ。
ただ、それを全部「思想」「人生観」「表現」と一括りにするのは、少し雑だと思っている。
言いたいことと、願望は違う
ここが一番大きな分かれ目だと思う。
願望はこういうものだ。
こうなってほしい
正義が勝ってほしい
報われてほしい
理不尽が裁かれてほしい
これは、現実を書き換える方向に働く。
だから多くの人と共有できるし、繰り返し消費できる。
一方で、言いたいことは違う。
これは避けられない
こうなってしまう
気持ちよくは終わらない
簡単に救われない
これは、現実を指さすだけだ。
不快なまま残ることも多い。
エンタメと、そうでないものの境界
ここまでくると、境界はかなりはっきりする。
エンタメとは
現実を書き換えるための装置
表現・思想とは
現実を指さすための行為
どちらが上とか下とかではない。
役割が違うだけだ。
作家を例にすると(あくまで私的分類)
辻村深月
人のつながりや孤立を「伝える」ための物語。
感情は手段であって目的ではない。
これをエンタメと呼ぶのは、少し乱暴だと思っている。東野圭吾
構造と仕掛けが最優先。
読後に倫理が残ることはあるが、それは副産物。
境界線上にいる作家。池井戸潤
企業を舞台にした勧善懲悪。
現実では果たせなかった決着を、物語で回収する。
現代の時代劇として、これは完全にエンタメだと思う。
これは好みの話ではなく、何をしに来ている作品かの違い。
「テーマあるじゃん」で全部済ませてしまう危うさ
感動した、泣けた、スカッとした。
それ自体は確かな体験だ。
でも、
新しい認識が残ったか
不快な事実が消えずに残っているか
現実を見る解像度が変わったか
ここを見ないまま「テーマがあるからエンタメ」
とまとめてしまうと、境界はどんどん曖昧になる。
最後に
エンタメを否定したいわけではない。
表現や思想を持ち上げたいわけでもない。
ただ、
言いたいことと、願望は違う。
感情処理と、認識の更新は違う。
その違いを分けて考えたいだけだ。
エンタメという言葉が便利すぎて、いろいろなものを雑に包み込んでしまっている気がしている。
