長距離は身体に悪い?
― ゴール地点の副作用を、スタート地点に投影してない?
「長距離って身体に悪いらしいよ」
たしかに、競技レベルのマラソン選手を見ると、
疲労骨折、関節負荷、慢性疲労、エネルギー不足。
身体への負担は小さくない。
でも、ちょっと待ってほしい。
それって本当に、“長距離そのもの” の話なのだろうか。
実際には、“競技化された長距離”の話であることが多い。
健康目的で週に数回軽く走ることと、月に数百km走る競技者では、もはや別競技と言っていい。
なのに私たちは、よくこういう誤認をする。
ゴール地点の副作用を、スタート地点に投影する。
ボディビルを見て「筋トレ危険」と言うようなもの
筋トレもそうだ。
極端な減量、脱水、身体負荷。
競技レベルになれば、当然副作用は増える。
でもそれを見て、「筋トレって身体に悪いよね」と言い出したら、少し話がズレる。
本来の筋トレは、
健康維持だったり、
代謝改善だったり、
姿勢改善だったりする。
つまり、入口の目的と、最終形態の目的が違う。
なのに、最終形態だけを一般化してしまう。
これ、創作でもよく起きる
「どうせ上手く描けないし」
「プロ並みじゃないなら意味ない」
「評価されないなら作っても無駄」
そうして、創作の入口で止まる。
でも本来、創作って結果だけではない。
描くことで観察力が育つ。
書くことで思考が整理される。
音楽を作ることで、自分の感情や構造が見えてくる。
つまり、“評価以前の効果”がある。
なのに、評価済みの最終形態だけを見て、「そこまで行けないなら意味ない」となる。
井の中の蛙の逆
これはもしかすると、「井の中の蛙」の逆現象なのかもしれない。
狭い世界しか知らないのではない。
むしろ逆。
広すぎる世界の最上位だけを見て、自分の行動可能域を閉じる。
海には無数の生き方がある。
浅瀬もある。
沿岸もある。
小魚もいる。
なのに、クジラだけを見て、「あんな風になれないなら泳ぐ意味ない」と海に入らない。
いわば、「大海のエビ、クジラを見て泳ぐのをやめる」状態である。
「諦めたら試合終了」は、意外と構造論かもしれない
あの言葉って、根性論として扱われがちだけど。
実際には、
「勝て」
ではなく、
「可能性を自分で閉じるな」
という話に近い気がする。
試合に出続ける限り、変化可能性は残る。
歩くことでも。
作ることでも。
考えることでも。
止まった瞬間だけ、可能性は固定化する。
ゴール地点を見るのは悪くない
問題なのは、ゴールだけを見て入口を否定すること。
クジラを見据えるのはいい。
でも最初からクジラになる必要はない。
海には、途中がある。
そして意外と、人を変えるのはゴールではなく、途中だったりする。
