興味本位の「興味」は、本当に興味なのか?
「興味本位でやった」
この言葉はよく事件報道や不祥事のニュースで使われる。
興味本位で侵入した。
興味本位で投稿した。
興味本位で試した。
しかし私は以前から、この表現に違和感を覚えていた。
本当にそれは「興味」なのだろうか。
興味と刺激は同じではない
現代では、興味と刺激がしばしば同じものとして扱われる。
だが両者は本質的に異なる。
刺激は強い。
新しい。
派手。
予想外。
しかし持続しない。
より強い刺激が現れれば、そちらへ移る。
一方、興味は違う。
理解したい。
知りたい。
確かめたい。
興味は対象への理解が深まるほど、むしろ強くなることがある。
刺激は消費する快楽であり、
興味は理解する快楽である。
「興味本位でやった」は本当に興味なのか
例えば、
「興味本位で万引きをした」
という言葉がある。
しかし、その行動の動機を分解すると、
・バレるか試したかった
・スリルが欲しかった
・退屈だった
・仲間に見せたかった
などが多い。
これらは本当に興味なのだろうか。
むしろ、
刺激本位
快楽本位
承認本位
と呼ぶ方が近いように思える。
興味は上達の入り口である
人は何かを極める時、
まず興味を持つ。
音楽も、
科学も、
哲学も、
芸術も、
最初は「なんだろう?」から始まる。
興味がなければ探究は始まらない。
興味がなければ継続もできない。
だから本来、
興味とは軽薄なものではない。
人類の知識や文化を前進させてきた原動力の一つである。
興味本位という言葉の変質
現代で使われる「興味本位」は、
本来の興味ではなく、
刺激やスリルを指している場合が少なくない。
その結果、
興味そのものがどこか浅はかで危険なもののように扱われる。
しかし私は逆だと思う。
危険なのは興味ではない。
刺激を興味と呼び替えてしまうことだ。
もし興味と刺激を区別できなくなれば、
私たちは探究心を軽薄さと誤認し始めるだろう。
そしてそれは、
人が何かを深く学び続ける力を見失うことでもある。
