説得と支配の違い
「説得」とは何だろうか。
多くの人は説得を、
「相手の考えを変えること」
だと思っている。
しかし本当にそうだろうか。
もし相手の考えを変えることが説得ならば、相手が変わるまで働きかけ続けることも説得になってしまう。
だがそれは本当に説得なのだろうか。
説得とは因果を示すことである
私は説得とは、
「利があること」
「因果の帰結」
を相手に示すことだと考える。
例えば、
「この橋は老朽化している」
「このまま放置すると崩落の危険がある」
と伝える。
これは説得である。
なぜなら相手が見えていない因果を示しているからだ。
しかしその後、
「だからお前はこうしろ」
「だからその選択は間違っている」
と言い始めた瞬間、それは別のものになる。
現代社会は説得と支配を混同している
現代では、
「相手が変わるまで頑張ること」
が説得だと思われている。
だがそれは相手の理解を目的としているのではない。
相手の結論を変えることを目的としている。
つまり、
説得ではなく支配である。
説得は判断材料を渡す行為であり、
支配は判断そのものを奪う行為である。
両者は似ているようで本質的に異なる。
注意と警告は説得ではない
例えば、
「飛び出したら危ない」
という言葉。
これは説得ではない。
注意である。
「飛び出したら車に轢かれるかもしれない」
なら警告である。
さらに、
「車は急に止まれないため、飛び出すと轢かれる可能性が高い」
なら因果の説明である。
ここにはまだ支配は存在しない。
危険を知らせているだけだからだ。
しかし、
「だからお前は従え」
となった瞬間に話は変わる。
判断の主体が相手から話し手へ移動する。
ここから支配が始まる。
善意という名の支配
支配は必ずしも悪意から生まれるわけではない。
むしろ善意から生まれることが多い。
「あなたのため」
「子供のため」
「みんなのため」
そう語られる支配は数え切れない。
しかし善意であることと、支配でないことは別問題である。
どれほど善意であっても、
相手の判断を認めず、
相手が自分の望む結論に至るまで働きかけ続けるなら、
それは説得ではない。
支配である。
説得の終わり
説得の責任は因果を示すところまでである。
理解した上でどう選ぶかは本人の責任だ。
相手が理解したにもかかわらず、自分の望む結論を選ばなかった。
その時に終われるかどうか。
そこに説得と支配の境界がある。
説得とは相手を変える技術ではない。
相手が自ら選べるよう、因果を照らす行為である。
