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クリテリア

33歳、年収1,200万、大手総合商社勤務──
一条達也は、スペックで人生を勝ち取ってきた。
評価され、賞賛され、選ばれてきた自負がある。
婚活の場でも、それは通用するはずだった。

だが、「すごいですね」と言われながら、誰とも繋がれない。
“会話が成立しない違和感”が積もる中、
ある女性から静かに告げられる。

「……ちゃんと、自分持って生きてますか?」

ぽかんとしたその言葉の意味が、
数日後、じわじわと心に沁みてくる。

達也は初めて、自分が“語られていなかった”ことに気づく。
“すごいね”以外の言葉を、もらった記憶がなかったことに。

スペックを脱いだあとに残るのは、
名刺も、武勇伝もない、ただの「自分」。

そしてようやく、誰かと笑い合える“人間”としての再出発が始まる。

──問いは、まだ消えていない。
でも、それでも、誰かと一緒にいられる。
#創作大賞2025


第1章 選ばれる側の人生

一条達也は、小学生のころから“誰よりも優等生”だった。委員長、生徒会長、代表スピーチ。作文もリレーも、なんでも「達也なら安心」。推薦枠で中高一貫の進学校へ進み、教師も同級生も彼に期待するのが“当たり前”になっていた。

「達也くん、将来は官僚? 商社? 医者でもいけるわよ」
言われ慣れたその言葉に、誇らしさも違和感もなかった。ただ、それが“自分”だと思っていた。

東大に進学し、就職活動もすんなり通過した。スペックは、自分の“証明”だった。誰にも否定されない人生。選ばれるのが当然の人生。

そんな達也にとって、婚活は“確認作業”の延長だった。自分を評価してくれる誰かに、出会うだけのはずだった。


第2章 俺のスペック

33歳、大手総合商社勤務。年収1,200万。海外案件の責任者。東大卒。

──一条達也のプロフィールには、“間違い”がなかった。

就職活動も、昇進も、同期の中では最速。日々の仕事に抜かりはなく、スーツの仕立てにも気を配る。靴はイタリア製、時計は派手すぎず品のあるモデル。清潔感、会話力、マナー、話題のストック──どれも、“選ばれる条件”として、当然のように身につけてきた。

“努力している”とは思っていなかった。それが“標準装備”だと思っていた。

婚活も、延長線だった。名刺の肩書きも、会話の引き出しも、プロフィールカードも、
相手に「すごいですね」と言わせるために整っていた。

(条件で選ばれることはあっても、弾かれることはない)

そう思っていた。

──スペックは、いつだって“俺”の武器だった。


第3章 誰も聞いていない会話

「いやあ、前の香港案件は本当にキツかったですよ。現地法人のトップが急に交代して、こっちは0から関係構築ですからね」

ランチミーティングのテーブルで、達也は笑顔で語っていた。

相手は営業部の後輩女性2人。上司に頼まれて“若手育成の一環”として、定期的に会話の場を設けている。形式的には。

「へえ〜、すごいですね!」
「そういう状況でも結果出すの、さすがです」

そう返す彼女たちの声は明るかったが、目線はすでに次の話題を探していた。

(ん? あれ、あんまり盛り上がってない?)

達也は不思議に思ったが、気にしないようにした。話題を切り替える。

「それでね、ホテルで朝5時から準備して──」

時計を見ると、昼休み終了の5分前。
後輩のひとりが、申し訳なさそうにスマホを手に取る。

「すみません、午後の資料の確認があって……」

「お、じゃあ俺があとで目通しておくよ。先輩に任せな」

そう言って笑顔で見送るが、心の奥にちくりと何かが刺さる。
彼女の「すごいですね」は、ただの反射だった気がした。

夜。合コン。

立食形式で10人ほどの男女が集まる席。達也は、やや高めのグラスを手に、自己紹介の輪の中心にいた。

「え〜! 総合商社!? やばくないですか?」
「海外とか行ってるんですか?」
「年収……1千万超えてるとか?」

女性たちの反応は期待通りだ。まばたきの間に「すごい」が飛び交う。

(よし、悪くない)

彼は話し続ける。海外案件、英語での交渉、リーダーとしての苦労話──
だが、ふと気づく。
目の前の女性がスマホをいじっている。
もうひとりは、隣の男と「最近のYouTuberの話」で盛り上がっていた。

(……あれ?)

一瞬、間が空いた。

(やっぱ俺、圧があるのかな。話が高度すぎた?)

そんな風に思ってしまうあたりが、達也の達也たる所以だった。
「自分が悪い」とは思わない。「すごすぎて、周囲が追いついてない」と処理する。

それが“無敵のスペック男”の、ちょっとしたズレの始まりだった。


第4章 処理される賞賛

婚活イベントの会場は、駅から徒歩3分のホテルのバンケットホール。
照明は柔らかく、流れるBGMはピアノのジャズ。
“落ち着いた大人の出会い”を演出する空間に、達也はよくなじんでいた。

ジャケットを軽く整え、受付でプロフィールカードを受け取る。
「33歳・大手総合商社勤務・海外プロジェクト担当・趣味:ゴルフと映画」
書く内容に迷いはなかった。むしろ、余白が多いカードがもったいないとさえ思えた。

(今日は、どんな人がいるんだろうな)

会場を見渡すと、女性たちの視線がいくつか飛んできた。
正面から目が合った相手が、すぐに逸らして照れ笑いする。

──悪くない。今日も順調だ。

フリータイムが始まる。
達也が一歩近づくだけで、女性たちの会話が止まり、場が少し静かになる。
誰もが「あ、来た」という表情をする。

「お仕事、すごいですね!」
「そんな年収、初めて聞きました……!」
「頼りがいありそう〜!」

そう、これでいい。
これが“正解”。
条件を提示し、それに対して賞賛が返ってくる。
これまでの人生と、まったく同じパターン。

(……の、はずだった)

「へぇ〜、そうなんですね」
「やっぱり、違いますね」
「そういう人って、なかなかいませんよね」

返ってくる言葉の端々が、どこか“処理されている”ように聞こえる。

「すごいですね」は、ただの社交辞令。
「頼りがいありそう」は、もう興味が薄れている時のテンプレ。
「違いますね」は、会話を終わらせたいときのクッションワード。

──なんだこれ。
これは賞賛じゃない。
反応はあるのに、繋がってない。

「で、最近ハマってることとかありますか?」

達也が問うと、相手の女性は「カフェ巡りです」と返した。
「あ、いいですね。どのへんとか?」

「えっと、表参道とか……」
「表参道! 俺、仕事で近くよく行きますよ」
「へぇ〜……」

──終わった。

会話が、浅い。広がらない。
自分のスペックを出したあとの世界に、何があるのか分からない。

隣のテーブルでは、地味めな男性が「最近の失敗談」で笑いを取っていた。
靴を間違えて履いて帰った話で、女性たちが腹を抱えて笑っている。

(なにあれ……“成功談”でもないのに、なんで?)

頭の中に、ざわざわとした違和感が広がる。
“すごい”が、届かない。
“正解”のはずの言葉が、何も生まない。

それでも、笑顔だけは崩さなかった。
いや、崩すという選択肢が、そもそもなかった。


第5章 俺を脱ぐ夜

婚活イベントが終わり、ホテルのロビーへと降りた。
照明は落ち着いていて、柔らかなクラシックが流れている。
参加者たちがそれぞれの帰路に向かう中、達也もコートを羽織り、エントランスへ向かう。

その時だった。

「あの……一言、言ってもいいですか?」

後ろから声をかけられた。
振り返ると、さっき同じテーブルにいた女性が立っていた。
表情は笑ってもいなければ、怒ってもいなかった。ただ、真剣だった。

「なんか……あなたって、“すごい”って言われるための話ばかりしてたなって思って。
いや、すごいのは分かります。本当に。でも……」

彼女は一瞬、言葉を選ぶように視線を泳がせた。

「……全部、上っ面っていうか。
ちゃんと、自分持って生きてますか?」

「……は?」

達也はぽかんとした。
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
けれど彼女は、それ以上言わなかった。軽く頭を下げ、足早にロビーを後にした。

達也はしばらくその場に立ち尽くした。

ロビーを出て、駅までの道をゆっくりと歩いた。
ネクタイを緩め、上着の前を開ける。
風が冷たい。肌に触れたその感触だけが、妙にリアルだった。

(……ちゃんと、自分、持ってるか……?)

繰り返そうとすると、言葉がうまく咀嚼できなかった。
「何だったんだ、今の」は、まだ“よく分からない”という意味だった。

駅前のロータリーにあるベンチに腰を下ろした。
すぐ横の自販機で缶コーヒーを買う。
熱すぎない温度が、手のひらに馴染んだ。

ふと、スーツのポケットに手をやる。
名刺が数枚──一度も出番はなかった。

話していたことを思い返す。
海外案件。プロジェクトの実績。年収と立場。
全部、“すごいですね”をもらうための材料だった。

──でも、それで何かが始まったことなんて、一度でもあったか?

家に着いて、ジャケットを脱ぐと、静かな部屋の空気が全身に広がった。
スーツの中の自分は、妙に小さく見えた。

スマホを取り出し、メモ帳を開く。
考えるより先に、指が動いた。

「俺は、誰かに“すごいね”以外の言葉をもらったことがあったか?」

浮かぶのは、賞賛と、評価と、感嘆の記憶ばかり。
そのどれもが、自分の“外側”に向けられたものだった。

ロビーで言われた言葉が、まだ頭の中でうまく形にならない。
でも、その“輪郭のままの違和感”だけが、静かに残っていた。


第6章 “すごい”以外の言葉

「俺は、誰かに“すごいね”以外の言葉をもらったことがあったか?」

スマホのメモにそう打ち込んだとき、自分の指が少し止まった。
何を思い返しても、“すごい”“さすが”“頼りになりそう”──
そういう言葉ばかりが並ぶ。

それらは、努力してきた自分の証だった。
誇らしかったし、支えでもあった。
──でも、どうしてだろう。
いま、それらの言葉のひとつひとつが、やけに“他人ごと”のように見えた。

名刺を出す機会もなかった。
誰にも中身を聞かれなかった。
それなのに、「ちゃんと自分持って生きてますか?」と聞かれた。

(あの人……なんで、あんなこと言ったんだ?)

目の前で静かに立っていた彼女の顔は、もう思い出せなかった。
髪型も、声のトーンも、服の色さえ曖昧だ。

でも──
あの言葉だけは、はっきりと残っていた。

「ちゃんと、自分持って生きてますか?」

その問いに、すぐには答えられなかった。
いや、今も答えは分からない。
でも、
“すごい”という言葉に頼らず、自分でなにかを話した記憶があるか?
問いかけを投げ返された記憶があるか?
心で誰かと会話をしたことがあるか?

──ない。

“すごい”は、いつも自分を飾ってくれた。
けれどそのたびに、自分の言葉が“誰とも繋がらない壁”になっていたことに、
気づいていなかった。

手の中のスマホをそっと伏せた。

誰だったのかも分からない。
名前も、連絡先も聞いていない。
もう二度と会うこともないかもしれない。

けれどその一言が、確かに今の自分の中で“問い”として生きていた。

──俺は、俺のままで、誰かと繋がれるんだろうか。

まだ分からない。
でも、答えが欲しいと思った。

それだけは、はっきりしていた。


第7章 肩書きのない会話

名刺は、もう持ち歩かなくなった。
以前は、スーツのポケットに常に数枚忍ばせていた。
「聞かれたら出す」という“武器の見せ方”を意識していた。
──でも今は、名刺を出さなくても、人と話せるようになった。

職場でも、少しずつ変化があった。
後輩のミスをフォローしたとき、「ありがとうございます」と頭を下げられた。
資料の構成に悩む若手に声をかけたとき、「なんか、一条さんって頼れるけど……ちょっと天然ですよね」と笑われた。

“すごい”とは言われない。
でも、笑ってくれた。
その笑いに、評価の温度はなかった。
ただ、“一緒にいる時間がちょっと軽くなった”という感触があった。

達也は、その感触を大事にしたいと思った。

──あの問いは、もう曖昧になりかけていた。

「ちゃんと、自分持って生きてますか?」

その女性の顔も、思い出せない。
でも、その問いだけは、達也の中に小さく灯り続けていた。

すべての会話に答えがあるわけじゃない。
誰かと過ごす時間に、意味があるとも限らない。
けれど──
“誰かと一緒にいても、自分のままでいられる”時間が、
たった数秒でもあれば、それで充分なのかもしれない。

ランチを終え、エレベーターに乗り込む。
同僚が「あ、さっきの報告、助かりました」とぽつりと礼を言う。

「おう、俺なりに頑張ったよ。ほら、意外といいとこあるだろ?」

「はいはい、“ちょっと天然”ってことで有名ですよ」

そう言われて、達也はふっと笑った。
“すごい”じゃない自分が、ちゃんと誰かと繋がっていた。

問いが完全に消えることはない。
でも、それでいい。

問いがあるままでも、誰かと一緒にいられる。
それが、達也の再出発だった。

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