ゴールは区切りであって、執着地点ではない
フルマラソンを想像してほしい。
スタートがあって、コースがあって、ゴールがある。
多くの人はそのゴールに向かって走る。
ここまでは当たり前の話だ。
ゴールを正解にした瞬間
ゴールを「正解」として扱った瞬間、構造が変わる。
そこに向かう行為は肯定され、
そこから外れる行為は否定される。
つまり、
ゴール基準で善悪が発生する
善悪はどこから来ているのか
例えば、
完走 → 良い
DNF → 悪い
逆走 → 間違い
こうしたラベルはよく使われる。
しかし、これは状態を見ているわけではない。
ゴールに対する整合性で分類しているだけだ
状態として見ればただの違い
途中で知り合いが遅れていると気づいて引き返した場合、
それは「逆走」と呼ばれる。
だが実際に起きているのは、
仲間を助けるために戻った
という選択だ。
善悪は圧縮である
ゴールを正解とすることで、
戻る
止まる
別の方向へ行く
といった異なる選択が、
すべて同じ評価に圧縮される
設計はどこまでか
多くの設計図は「ゴールまで」しか描かれていない。
スタートからゴールまでのルートは決まっているが、その先は白紙のままだ。
それにもかかわらず、その設計が正しいとされる。
ゴール以降が未定義のまま、全体の基準として扱われている
ゴールは区切りでしかない
フルマラソンでも同じだ。
ゴールした瞬間にすべてが終わるわけではない。
記録を見る
次を考える
状態を調整する
ゴールはただの区切りだ
執着地点にした瞬間に歪む
ゴールを執着地点として扱うと、
そこに至る道だけが正当化され、
それ以外の選択は否定される。
ここで初めて善悪が強く働き出す。
最後のレースなら成立する
もしそれが生涯最後のレースであれば、ゴールを絶対基準として扱うことも成立する。
その場合、そこから外れることは確かに逸脱になる。
しかし多くはそうではない
現実には、多くの人は走り続ける。
それにもかかわらず、
設計だけが「最後のレース」として扱われている
結論
ゴールは執着する場所ではない。
ゴールとは、選択の履歴に一度区切りをつける記号である
そして、善悪とは、その区切りを正解としたときに発生する評価構造である
ゴールに向かうこと自体には何の問題もない。
だが、それを唯一の正解として扱い、それ以外を否定する構造だけが歪んでいる。
