草行露宿と英雄譚化された苦難
草行露宿。
草をかき分けて進み、露の中で野宿する。
辞書を見ると、
「旅の行程が厳しく切羽詰まっていること」
などと説明されている。
しかし、この解釈には少し違和感がある。
そもそも草行露宿とは、本来は旅の状況を描写した言葉ではないだろうか。
草をかき分ける。
野宿する。
ただそれだけである。
そこには本来、
「苦難」
も、
「忍耐」
も、
「英雄性」
も書かれていない。
ところが現代では、
草行露宿
↓
苦難
↓
忍耐
↓
英雄譚
という変換が無意識に行われているように見える。
しかし、本当にそうだろうか。
むしろ「切羽詰まっている」という状態そのものに違和感がある。
切羽詰まるとは何か。
それは想定していた状況が崩れた時に起こる。
計画通りに進むはずだった。
予想の範囲内だと思っていた。
用意した手順で解決できると思っていた。
その前提が崩れた時、人は切羽詰まる。
逆に言えば、
草行露宿を想定している人は切羽詰まらない。
登山家は悪天候を想定する。
航海士は嵐を想定する。
旅人は野宿を想定する。
だから状況が訪れても、
「そういう局面か」
となるだけである。
つまり、
草行露宿は状況であり、
切羽詰まるのは認識である。
両者は本来別の話なのだ。
さらに言えば、
苦難もまた英雄譚ではない。
苦難とは単に困っている状態である。
英雄譚とは後世が作る物語である。
当人はただ進んでいるだけかもしれない。
試行錯誤しているだけかもしれない。
後から見た人が、
「あれは苦難だった」
「あれは偉業だった」
と意味を与えているだけかもしれない。
本当に偉業を成した人々も、
その最中は英雄だったわけではない。
目の前の問題を解いていただけである。
むしろ苦難は達成後に訪れることすらある。
作ることより維持すること。
獲得することより守ること。
成功することより続けること。
その方がはるかに困難な場合も少なくない。
草行露宿とは苦難を称える言葉ではない。
苦難を乗り越えた英雄を語る言葉でもない。
ただ、
草をかき分け、
露に濡れながら、
それでも歩み続ける状態を描写した言葉である。
そこに苦難を見るのか。
そこに英雄を見るのか。
それとも単なる旅の一場面として見るのか。
その違いは、言葉ではなく私たち自身の価値観にあるのかもしれない。
