謙虚と言われることへの違和感
「謙虚ですね」
そう言われるたびに、私は少しだけ違和感を覚えていた。
もちろん悪意はない。
むしろ褒め言葉として使われていることは分かる。
それでもどこか居心地が悪い。
なぜだろうと考えていたが、最近ようやく理由が分かった気がする。
謙虚と美意識は同じではない
世間で言う謙虚とは、
「自分を低く見積もること」
あるいは
「自分の能力を過小評価すること」
として使われることが多い。
しかし私はそれを美しいとは思わない。
自分がやったことを知っているなら、
「やった」
と認識するべきだと思う。
努力したなら努力した。
作ったなら作った。
できることはできる。
それを否定する必要はない。
むしろ、
「私は何もできません」
と必要以上に言う方が卑屈に見えることすらある。
本当に嫌なのは驕りの方である
ではなぜ自分の成果を声高に語らないのか。
それは謙虚だからではない。
単純に格好悪いと感じるからだ。
「俺はすごい」
「俺が一番だ」
「見ろ、評価しろ」
そうした振る舞いは、自分自身の価値を下げるように見える。
自分を高く見せようとする行為そのものが、逆に自分を安くしてしまう。
だから言わない。
能力がないと思っているからではなく、美しくないと思うからだ。
馮異は本当に謙虚だったのか
後漢の名将・馮異には「馮異大樹」という逸話がある。
将軍たちが戦功を語り合う中、彼だけは離れた大樹の下に座っていたという。
後世はこれを「謙虚な人のたとえ」として語る。
しかし本当にそうだろうか。
馮異は自分に戦功がないと思っていたのだろうか。
そんなはずはない。
将軍として軍を率い、結果を出していた人物である。
おそらく彼は、
「手柄争いに加わることが美しくない」
と思っただけなのではないか。
周囲はそれを見て「謙虚」と呼んだ。
しかし本人はただ、自分の美意識に従っていただけかもしれない。
謙虚というラベル
私たちは他人の行動を見ると、すぐにラベルを貼りたがる。
謙虚。
野心家。
現実主義者。
理想主義者。
だが、そのラベルは本当に本人の内面を表しているだろうか。
もしかすると、
「謙虚ですね」
という言葉も、
相手が理解しやすいように貼ったラベルに過ぎないのかもしれない。
本人は自己評価が低いわけではない。
ただ別の評価軸で生きているだけ。
ただ別の美意識を持っているだけ。
それなのに「謙虚」という言葉に変換される。
だから褒め言葉であることは理解しつつも、どこかモヤモヤするのである。
謙虚とは何なのか
もしかすると謙虚とは徳目ではなく、他者から見た結果なのかもしれない。
本人はただ自分の美学に従っている。
ただ自分の評価軸を持っている。
ただ他人の評価ゲームに参加していない。
その姿を見た周囲が、
「謙虚な人だ」
と解釈しているだけなのではないだろうか。
もしそうなら、謙虚さとは性格ではなく翻訳である。
そして私が感じていた違和感は、
その翻訳が少しだけ自分の意図と違っていたからなのかもしれない。
