最近のハラスメントに対して思うこと
最近、「ハラスメント」という言葉を耳にする機会が本当に増えた。
モラハラ、カスハラ、〇〇ハラ。
これらの言葉によって救われた人がいること、問題が可視化された意義があることは、否定しようがないと思っている。
ただ一方で、個人的にどうしても引っかかる感覚がある。
それは、「何が起きたか」よりも「どう感じたか」だけで、過去の出来事の意味が再定義されていないだろうかという点だ。
「声を上げた」という説明では足りない違和感
よく聞く説明に「昔から問題だったけど、声が上がらなかっただけ」というものがある。
でも、当事者としてその時代を生きてきた側からすると、正直「寝耳に水」なケースも少なくない。
当時は問題として扱われていなかった行動が、
ある日突然名前を与えられ、「有害なもの」と断定される。
もちろん、誰かが不快だった可能性はある。
ただそれと「当時から明確な被害として成立していた」という話は、同じではないはずだ。
価値観が変わったなら、「変わった」と言えばいい。
それを「昔から我慢していた」「ずっと被害だった」という物語に書き換える必要が本当にあるのだろうか。
因果が消えて、結果だけが残る構造
最近のハラスメント言説を見ていると、原因よりも結果が先に置かれているように感じる。
不快だった
傷ついた
だから〇〇ハラ
という流れだ。
もちろん、被害感情は大切だ。
ただ本来なら、その手前に
なぜそうなったのか
どういう関係性・環境だったのか
構造的な要因は何か
といった因果の検討があるはずだ。
ところが今は、原因を尋ねた瞬間に「被害者軽視」「それを言う時点で加害」と受け取られてしまう空気がある。
結果として、説明する自由そのものが消えていく。
共感が記憶を再編集する瞬間
もう一つ気になっているのは、感情の共鳴が記憶の意味を後から書き換えてしまう現象だ。
SNSやメディアで「それ、実は問題だったよね」「わかる、私もずっと我慢してた」という共感が広がると、
当時は特に気にしていなかった出来事が、「実はずっと被害だった体験」へと再解釈される。
これは嘘をついているわけでも、誰かを騙しているわけでもない。
人の記憶は、感情とともに何度も上書き保存されるものだからだ。
ただ、その再編集が現在の感情だけを基準に行われると、当時の合意や文脈は簡単に消えてしまう。
過剰防衛と「逆〇〇」が生まれる理由
こうした状況が続くと、防衛はどんどん強度を増す。
中間領域がない
0か100か
少しでも疑問を出すと敵認定
結果として、過剰防衛が過剰防衛を呼び、「逆〇〇」といった反動的な言説が生まれる。
これは思想の問題というより、処理しきれなかった問題が溜まった結果の力学だと思う。
問題提起として残したいこと
ハラスメントという言葉自体は必要だ。
実際に救われた人がいるのも事実だと思う。
ただ、問いとして残したい。
共感は結論になっていないか
因果を語ること自体が攻撃扱いされていないか
価値観が変わった事実を、過去の断罪にすり替えていないか
共感は入口であって、答えではない。
感情を否定せずに、同時に因果や構造も語れる社会でないと、問題は解決されないまま形を変えて増えていくだけだと思う。
これは誰かを責めたい話ではない。
ただ、今の空気に対する個人的な違和感として、ここに書き残しておきたい。
