感情を消費する社会は、なぜ疲れるのか
最近、理由ははっきりしないけれど、「なんとなく疲れている」と感じる人が増えている気がする。
忙しいわけでも、何か大きな不幸があったわけでもない。
それでも、気力が続かない。
この疲れの正体は、感情が消費され続けていることと関係しているのではないかと思う。
感情が「得に行くもの」になった
今の社会では、感情がとても分かりやすく配置されている。
あの話題に触れれば怒れる。
この動画を見れば泣ける。
この意見に乗れば、正義の側に立てる。
感情は、出来事の結果として自然に生まれるものというより、取りに行く体験のようになっている。
これは、テーマパークのアトラクションに近い。
決められた場所に行き、
決められた刺激を受け、
決められた感情を体験して、
出口から出ていく。
アトラクションでは、学習しない
アトラクションで学習できると思っている人はいない。
ジェットコースターに乗って、操縦技術が身についたと思う人はいないし、脱出ゲームを終えて、
本物の危機対応力が身についたと考える人もいない。
体験型アトラクションについても同じだ。
職業体験や疑似体験は、あくまで「入口」にすぎない。
本番は別にあると、誰もが分かっている。
ところが、感情だけは例外になっている。
感情だけが「体験=到達」になる
怒りを感じた瞬間に、「分かった気」になる。
共感した瞬間に、「当事者になった気」になる。
涙が出た瞬間に、「考え尽くした気」になる。
感情を体験したことが、そのまま理解や学習、到達に置き換わってしまう。
でも本来、感情はゴールではない。
スタート地点だ。
感情は、本来「修繕」のためにある
感情は、本来こう使われるものだ。
出来事が起きる。
感情が生まれる。
なぜそう感じたのかを考える。
どこが壊れたのかを特定する。
修繕する。
次の判断が少しだけ良くなる。
感情は、壊れた場所を知らせる信号であり、構築のための材料でもある。
ところが感情が消費される構造に入ると、このプロセスが丸ごと省略される。
積み上げがリセットされる
感情消費の構造では、
前の感情は処理されないまま、次の感情で上書きされる。
怒りが終われば、次の怒りへ。
悲しみが終われば、次の悲しみへ。
正義が終われば、次の正義へ。
テーマパークで、客がアトラクションを体験するだけで、設備の補修や修繕をしないのと同じだ。
だから、何も積み上がらない。
履歴が残らない。
構造が育たない。
なぜ、疲れるのか
感情を消費し続ける社会が疲れるのは、感情の量が多いからではない。
感情を使いっぱなしにしているのに、何も修繕されないからだ。
壊れた場所は放置され、同じ壊れ方が繰り返される。
そのたびに、また新しい感情を体験しに行く。
疲れないはずがない。
製品は消費していい。でも感情は違う
製品は消費していい。
消費される前提で作られているからだ。
でも感情や思想は、消費されるように設計されていない。
引き受け、咀嚼し、修繕し、次に渡すためのものだ。
感情をテーマパークのように扱い始めたとき、私たちは体験者ばかりを増やし、修繕する人を失っていく。
それが、感情を消費する社会が、静かに人を疲れさせる理由だと思う。
