私の棚には流行はなかった
― 「○○離れ」という言葉への違和感
最近よく聞く。
「漫画離れ」
「テレビ離れ」
「若者の○○離れ」
けれど、この言葉を聞くたびに、少しだけ違和感がある。
というより——
“離れるって、そもそも何から?”
という感覚が先に来る。
私は漫画を読む。
だが、正直に言うと、私の本棚に“流行”があった記憶がほとんどない。
少年ジャンプを追いかけていたわけでもない。
話題作を中心に読んでいたわけでもない。
気がつけば、棚には妙なものばかり並んでいた。
歴史。文化。時代背景。
異国の生活。資料性の高い漫画。
空気感を読むような作品。
読んでいたのは、みんなが話題にするものというより、
「知ってる人だけ知ってる」棚
だった。
だから、「漫画離れ」と言われても、正直よくわからない。
なぜなら——
最初から“流行の漫画”に近づいてすらいなかったからだ。
離れるという言葉は、本来“個人”に使うものではないか?
「離れる」という言葉には、前提がある。
それは、
“元々そこにいた”
ということだ。
毎週ジャンプを買っていた人が読まなくなる。
テレビを毎日見ていた人が見なくなる。
これは確かに「離れた」と言える。
だが、最初からそこにいなかった人に対して、
「離れた」
は成立するのだろうか。
私は、歴史漫画を読んでいた。
資料性の高い作品を読んでいた。
正直に言えば、昔からその棚は静かだった。
クラスで話題にならない。
流行にもならない。
SNSでもほぼ見ない。
けれど、読んでいる人は妙に熱量が高かった。
つまり、
“離れた”のではなく、最初から主流ではなかった
だけなのだ。
「○○離れ」は本当に“離れた”のか?
ここで少し視点を変えてみる。
もし「漫画離れ」という言葉が、
“流行作品を読む人が減った”
という意味なら、
それは“離れた”ではなく、
もっと単純に、
“飽きられた”
なのではないか。
流行とは、そもそも循環する。
盛り上がり、共有され、消費され、次へ移る。
それを「離れた」と言うのは、少し言葉が優しすぎる。
人気が落ちた。
熱量が移動した。
共有文化が変化した。
そう言った方が、まだ正確な気がする。
私の棚には、最初から流行はなかった
だから私は、「○○離れ」と言われるたびに少し困る。
離れるという感覚が、よくわからない。
だって、
私の棚には、最初から流行はなかった。
静かな棚だった。
けれど、その静かな棚は今もそこにある。
誰かが騒がなくても。
ランキングに並ばなくても。
共有文化にならなくても。
好きな人が、静かに読み続けている。
そして多分——
本当に面白いものというのは、案外そういう場所にずっと置いてある。
