「水は100℃で沸騰する」は、本当に正しいのか
「水は100℃で沸騰する」
誰もが一度は聞いたことのある言葉だと思う。
疑う余地もなく、正しいものとして扱われている。
では、もし温度計が110℃を指していたらどうするだろう。
しかも、その中にあるのは明らかに“水”のままだったとしたら。
その瞬間、多くの人は混乱する。
「壊れているのは温度計だ」と思うかもしれない。
あるいは、「何かおかしい条件があるのだろう」と。
でも本当に疑うべきなのは、そこだろうか。
まずは、この「100℃」という数字の正体から見てみる。
実際には、水が100℃で沸騰するのは
「約1気圧」という特定の条件のもとでの話だ。
気圧が低ければ、もっと低い温度で沸騰する。
逆に気圧が高ければ、100℃を超えても水は液体のままでいられる。
つまり、
「水は100℃で沸騰する」
という言葉は、厳密には正しくない。
正確に言えば、
「特定条件下では、水は約100℃で沸騰する」
というだけの話だ。
ここで一つの違和感が出てくる。
なぜ、こんなにも条件付きの話が、
あたかも“普遍的な真理”のように扱われているのか。
理由はシンプルだ。
条件を全部書くと、扱えないからだ。
温度、圧力、環境、容器、時間。
すべてを含めて説明しようとすると、思考コストは跳ね上がる。
だから人は、条件を削る。
そして削られた状態のまま、それを使い続ける。
ここで問題が起きる。
仮定が、そのまま固定される。
そしていつの間にか、こう変換される。
「この条件ではそうなる」
↓
「常にそうなる」
仮定が、真理の顔をし始める。
では、110℃の水は何なのか。
これは前提が壊れたわけではない。
単に、前提の外に出ただけだ。
本来の前提はこうだったはずだ。
「約1気圧のもとで、水は約100℃で沸騰する」
この“約1気圧”という条件が消えた瞬間、
その言葉は過剰に一般化される。
110℃の水は、その省略された条件を露出させただけに過ぎない。
ここで重要なのは、前提条件が雑であることではない。
むしろ、雑であること自体は必要だ。
現実をそのまま扱うことはできない以上、
何かしらの簡略化は避けられない。
問題はそこではない。
問題は、
「雑なものを、雑だと認識していないこと」
にある。
この構造は、科学だけの話ではない。
常識も、一般論も、市場のルールも、評価基準も、
すべて同じ構造を持っている。
条件付きの仮定が、条件を失ったまま流通する。
そして、それが“正しさ”として扱われる。
前提条件とは何か。
それは、思考を動かすための仮の足場だ。
固定するためのものではない。
むしろ、いずれ外されることを前提としている。
問い直すべきなのは、「それが正しいかどうか」ではない。
その前提は、どこまでの範囲で機能しているのか。
そして、その外に出たとき、何が見えるのか。
「水は100℃で沸騰する」
その一文の中には、削られた条件と、
固定された思い込みが同時に存在している。
そしてそれは、私たちの思考そのものの縮図でもある。
