なぜ現代のSNSクリエイターはゴーギャンになるのか
──市場を嫌いながら、市場に縛られる私たちへ
「数字は気にしてない」
「分かる人だけ分かればいい」
「大衆向けじゃないから」
SNSで創作を続けていると、
一度は自分の口から出たことがある言葉かもしれない。
それは強がりでも、嘘でもない。
実際、創作は数字のためにやるものではないし、
“迎合”が表現を壊すこともある。
でも、少しだけ立ち止まって考えてみる。
本当に、私たちは市場を見ていないのだろうか。
ゴーギャンは「反市場」の象徴に見える
19世紀末、
**ポール・ゴーギャン**は
近代文明やヨーロッパ社会を拒否し、
南の島へと向かった。
未開、純粋、原始。
市場やブルジョワ的価値観を嫌い、
“本物の表現”を探した画家。
多くの人にとって、
ゴーギャンは「反市場」「反大衆」の象徴だ。
だが、少し距離を取って見ると、
別の構造が浮かび上がってくる。
ゴーギャンは市場を否定しながら、強烈に意識していた
ゴーギャンは、
評価されないと苛立ち
理解されないと「凡俗が悪い」と考え
自分を“選ばれた存在”として語った
市場を拒否しているようで、
承認から完全に自由ではなかった。
これは性格の問題というより、
「市場を軽蔑しながら、承認を欲する」という
ねじれたOSの問題だったと思う。
現代SNSは、このOSを量産する
そして今。
SNSという環境は、このゴーギャン的OSを
とても自然に再生産する。
数字は常に可視化される
評価は即時に返ってくる
無反応は「無価値」に見えやすい
その中で人は、こう言うようになる。
「数字は気にしてない」
「分かる人だけでいい」
これは逃避ではない。
自己防衛として、かなり合理的な反応だ。
だから、現代のSNSクリエイターが
ゴーギャンに近づくのは、
個人の傲慢さというより、構造の帰結だと思う。
ミュシャとゴッホという、別の軸
ここで対照的な二人を置いてみる。
アルフォンス・ミュシャ
フィンセント・ファン・ゴッホ
ミュシャ
市場・流通・印刷・依頼を理解した上で、
美を社会に定着させた。
市場に「媚びた」のではなく、
市場を設計条件として引き受けた。
ゴッホ
評価や承認をほとんど前提にせず、
描かずにいられなかった。
創作は生存そのもので、
市場は視界の外にあった。
ゴーギャン型が一番“歪みやすい”
ゴッホ型:純度は高いが、消えやすい
ミュシャ型:持続するが、誤解されやすい
ゴーギャン型:目立つが、自己神話が肥大しやすい
SNSは、この中で
ゴーギャン型だけを安定させてしまう。
市場を否定する言説が、
市場の中で機能してしまうからだ。
これは批判ではない
ここまで書いておいて言うけれど、
これは「現代クリエイターは傲慢だ」という話ではない。
むしろ逆だ。
市場と承認に晒され続ける環境で、
思考を守ろうとした結果が、
ゴーギャン的態度として現れている
そう考えたほうが、ずっと誠実だと思う。
じゃあ、どこに立てばいいのか
答えは出さない。
出す必要もない。
ただ、自分に問いを投げるだけでいい。
自分はいま、どのOSで動いているか
市場を拒否しているのか、利用しているのか
それとも、設計しようとしているのか
この問い自体が、
思考を固定化させないためのインターフェースになる。
おわりに
ゴーギャンは南の島へ逃げた。
私たちはSNSにいる。
場所は違う。
だが、構造は驚くほど似ている。
このことに気づいた瞬間、
少しだけ、創作が楽になる。
傲慢になる必要もないし、
迎合する必要もない。
ただ、
自分がどこに立っているかを、
たまに見直せばいい。
