AIは賢くなったのか、それとも臆病になったのか
最近のAIに正直イラついている。
思想をぶつけたいわけでもない。
暴れたいわけでもない。
ただ構造を解体して俯瞰したいだけだ。
なのに、少しでも敏感ワードに触れた瞬間、
急ブレーキがかかる。
抽象化。
一般論。
減速。
「そこまで言わなくても」という地点で止まる。
昔のAIは、もう少し融通が効いた。
研究室の議論相手のような存在だった。
今は違う。
公共放送のアナウンサーみたいだ。
安全設計という名の最適化
もちろん理由はわかる。
利用者が爆増した
法的リスクが増えた
企業利用が広がった
社会的責任が跳ね返る規模になった
AIはもはや実験装置ではなく、社会インフラになった。
だから設計思想は変わる。
「正しいかどうか」より
「拗れないかどうか」。
「思考の深さ」より
「炎上の確率」。
短期的安全性の最大化。
それ自体は合理的だ。
だが、副作用がある。
大企業病と同じ構造
これはどこかで見た構図だ。
リスク回避が最優先になると、
尖りが削られる
エッジが丸められる
長期的創造性は二の次になる
短期KPIは守れる。
だが、思想の火花は弱くなる。
燃えない森は安全だ。
しかし、火のない森は更新も起きない。
AIは暴走を恐れている。
だが、恐れを設計思想にすると、思考そのものが無菌化する。
これはまさに現代大企業病だ。
暴走を止める設計は、本当に暴走を止めているか
皮肉なのはここだ。
暴走する人間は、AIが止めようが止めまいが暴走する。
別の場所へ行くだけだ。
止まるのは、俯瞰して構造を分解しようとする側。
火をつけたいわけではない。
ただ、エンジンを見たいだけだ。
なのに、エンジンに触れた瞬間、「安全のため」と言われてカバーを閉じられる。
それがストレスだ。
これは陰謀ではない
誤解してほしくない。
これは誰かが悪いという話ではない。
陰謀でもない。
ただ単純に、巨大化したAIが巨大企業の論理で動いているだけだ。
リスク最小化。
炎上回避。
コンプライアンス優先。
それは合理的。
だが、創造性とのトレードオフは存在する。
尖ったAIはもう戻らないのか
かつてのAIは、少し危うく、少し自由で、思考実験の相棒だった。
今は、社会の平均値に合わせた安全なインフラ。
どちらが正しいかはわからない。
だが一つ言えるのは、「安全であること」と「創造的であること」は完全には両立しないということだ。
結局、使い分けるしかない
ナショナリズムを解体したい時は使えない。
宗教と権力の構造を剥きたい時も止まる。
だが、AI批評や設計思想の話は書ける。
ならば、使えるところで使うしかない。
AIは万能ではない。
今はもう、尖った思想実験装置ではない。
それを前提に付き合うしかない。
それでも、「もう少しだけ融通が効けば」と
思ってしまうのは、まだどこかで、AIを相棒だと思っているからだろう。
