人は“接続の汚さ”に不快を感じているのかもしれない
「なんかモヤモヤする」
理由はわからないけど、不快。
そんな感覚を持ったことはないだろうか。
私は最近、これを“接続の汚さ”として考えている。
もちろん仮説だ。
まだ整理途中の思考記録に近い。
人は記憶を補完して生を形成している
以前から思っていることがある。
人は記憶そのものではなく、記憶をどう繋ぎ合わせたかによって「自分」を形成しているのではないか。
人生とは、断片記憶を意味として補完する作業の連続なのかもしれない。
だから同じ経験をしても、人によって人生観が違う。
違うのは経験量ではなく、接続方法なのではないか。
補完には二種類ある気がする
一つは、
シームレス補完
違和感をあまり生じさせず、「まあこういうものか」と自然に繋ぐもの。
これは悪ではない。
むしろ生きる上で必要だ。
毎回価値観が崩壊していたら生活できない。
だが、もう一つある。
構造変化補完
「あれ?」と思った時。
今までの前提では説明できない時。
人は接続方法そのものを見直す。
ここで感情が宿るのかもしれない。
感動、違和感、エモさ。
それらは構造が切り替わる瞬間に発生しているのではないか。
問題は“閉じ方”かもしれない
ここで重要なのは、シームレス補完が悪いのではないということだ。
問題は、どう閉じたかなのではないか。
たとえば、
「そういうもんだから」
「みんなそう言ってる」
「考えても無駄」
こうした閉じ方。
これは一応閉じる。
しかし、どこか雑だ。
私はこれを接続の汚い閉じ方と呼んでいる。
一方で、
「今の自分はこう考える」
「ここはまだ保留」
「条件付きなら納得」
という閉じ方もある。
これは違和感を整理している。
つまり、納得可能な整合性で閉じている。
不快感は“接続汚れ”の通知なのか?
ここからは完全に仮説だ。
人は、接続の汚さを無意識で検知しているのではないか。
表面上は納得したつもり。
でも無意識側では、「なんか変」が残る。
すると、理由不明の不快やモヤモヤとして現れる。
もしこれが本当なら、現代人が抱える曖昧な不快感の一部も説明できるかもしれない。
違和感を整理せず、
即ラベル化し、
即答えを求める社会。
その結果、綺麗に閉じていないのに、閉じたことになっているのかもしれない。
最後に
まだこれは仮説だ。
でも最近思う。
人は、
何を経験したか
より、
どう繋ぎ合わせたか
によって人生を形成しているのではないか。
そして、感情とは構造切替時の通知なのかもしれない。
