李代桃僵は「犠牲を払う計略」ではない──管理限界を利用する計略である


人はすべてを保持できない

三十六計第十一計「李代桃僵(りだいとうきょう)」は、
「桃を守るために李(すもも)が犠牲になる計略」
と説明されることが多い。
もちろん、その説明も間違いではない。
しかし、本当に重要なのは、
なぜ人は犠牲を払わなければならない状況になるのか
という点である。
人間は、

  • 情報

  • 人間関係

  • 財産

  • 組織

  • 感情

あらゆるものを保持しようとする。
しかし、人間の認知資源には限界がある。
限界を超えて抱え込めば、
管理できなくなり、
やがて全体が崩壊する。

保持は認識されない

生物は、
変化を検知するための装置
として進化してきた。
昨日と同じ山。
昨日と同じ川。
昨日と同じ空。
それらを毎日意識することはない。
しかし、
山が崩れれば気付く。
川が枯れれば気付く。
つまり、
「あること」は背景となり、認知されない。
認知されるのは、
「なくなった」
「変わった」
という異常だけである。
保持そのものは、
普段ほとんど意識されない。

なぜ人は抱え込み続けるのか

保持が認知されない以上、
保持にはコストがあることも見えにくい。
書類を一枚残す。
メールを一件保存する。
人間関係を一つ維持する。
一つ一つは小さい。
しかし、
保持対象が増えるほど、
管理コストは増え続ける。
にもかかわらず、
人は
「まだ持てる」
と思ってしまう。
なぜなら、
保持は日常であり、
認知の対象にならないからである。

李代桃僵は損失ではなく管理の問題である

人は、
「失うこと」
には敏感である。
だから、
何かを捨てることを
犠牲だと感じる。
しかし、
本当に恐れるべきなのは、
何も捨てられず、すべてを失うこと
である。
李代桃僵とは、
犠牲を美化する計略ではない。
管理能力には限界があることを理解し、
価値順位を定め、
全体を維持するために
管理対象を整理する計略なのである。
一部を失うことが目的ではない。
全体を守ることが目的なのである。

おわりに

生物は、
変化を検知するために進化した。
だから、
失うことには敏感だが、
保持し続けるコストには鈍感である。
その結果、
不要なものまで抱え込み、
管理能力を超えてしまう。
李代桃僵とは、
その本能に流されず、
限られた認知資源を理解し、
何を守り、
何を手放すかを判断する兵法である。
犠牲を払うことが兵法なのではない。
管理限界を理解し、全体最適を選択することこそが、李代桃僵の本質なのである。

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