安全に暮らしたいと、快適に暮らしたいは、だいたい反対方向にある
「安全に暮らしたい」と「快適に暮らしたい」は、
同じ意味だと思われがちだ。
事故が起きないこと。
不安を感じないこと。
トラブルに巻き込まれないこと。
でも本当にそうだろうか。
少なくとも構造的には、この二つはしばしば反対方向に向かう。
快適さは、簡略化と最適化の上にある
快適にする、という行為はだいたい次のことを含んでいる。
手順を減らす
無駄を省く
余白を削る
自動化する
判断を外部に委ねる
これは悪いことではない。
日常を回すには、とても有効だ。
ただし、この「削られるもの」の中には、
**安全のために存在していたマージン(余剰・冗長性)**が含まれている。
安全は、たいてい「無駄」でできている
安全とは、
二重化
遠回り
非効率
余裕
すぐには役に立たないもの
の集合体だ。
非常時にしか使われない手順。
普段は邪魔に見える確認。
なくても回るけれど、あると助かる余白。
だから、快適化を本気で進めると、
必ずどこかで安全な部分と衝突する。
これは思想の問題ではなく、
システムの性質だ。
問題は「削ること」ではない
安全のマージンを削ること自体が、
即、悪いわけではない。
問題になるのは、
どこを削ったのか
どこに衝突が移動したのか
を理解しないまま進めることだ。
理解せずに快適化を行うと、
衝突や破綻のコストは見えない場所に移動する。
外部に投げられる衝突
多くの場合、移動先は決まっている。
現場
下請け
インフラ
弱い立場の人
将来世代
環境
自分の生活は滑らかになる。
不安は感じにくくなる。
だから「安全になった」と錯覚する。
実際には、
衝突点が視界から消えただけだ。
本当の意味での「安全」
もし「本当に安全に暮らす」ことだけを考えるなら、
技術や資本への依存は、むしろ減らした方がいい。
狩りや採取、せいぜい初期の農耕のように、
依存関係が短く
仕組みが理解でき
失敗しても局所で止まる
社会の方が、構造的には安全だったとも言える。
不便ではあるが、
壊れ方が予測できる。
快適さは「危険の外注」
現代の快適さは、
危険を消したのではなく、外注した結果だ。
誰かが管理している。
誰かが復旧する。
誰かが責任を取る。
その前提の上に成り立つ快適さは、
壊れるまではとても心地いい。
選択の問題として
快適さを選ぶこと自体が悪いわけではない。
ただ、
何を削ったのか
どこに衝突を置いたのか
を自覚しないまま選ぶと、
「安全に生きている」という錯覚が生まれる。
安全と快適は、
同時に最大化できない。
そのトレードオフを
どう引き受けるか、という話だ。
