「人の時間を奪う」という価値観は、作品への冒涜なのかもしれない
最近、
「人の時間を奪ってしまうから」
という言葉を目にすることが増えた。
しかし、私はこの感覚に少し違和感を覚える。
作品は押し付けるものではない。
見るかどうか、読むかどうか、聴くかどうか。
その選択は受け手にある。
本屋に並ぶ本を手に取るかどうかは読者が決める。
YouTubeで再生ボタンを押すのも視聴者自身だ。
ならば、それを「時間を奪う」と表現するのは少しおかしい。
本当に奪っているものは何か
現代のSNSは、人間の注意を奪い合う仕組みでできている。
トレンド。
エンゲージメント。
おすすめアルゴリズム。
滞在時間。
多くの人が、それらに乗るための攻略法を学び、実践する。
つまり、
「作品を見てもらう」
よりも、
「アルゴリズムに見つけてもらう」
ことへ意識が向いている。
もし「人の時間を奪う」という表現があるなら、それは作品ではなく、この構造そのものに向けられるべきではないだろうか。
なぜ罪悪感が生まれるのか
本当に表現したいものがあるなら、
「必要な人に届けばいい」
という発想になる。
しかし、
「有名になりたい」
「フォロワーを増やしたい」
「収益化したい」
という目的が前面に出ると、作品は目的ではなく手段になる。
その瞬間、
相手の時間は「作品を味わう時間」ではなく、「自分の目的を達成するための資源」に変わってしまう。
だから、
「人の時間を奪ってしまった」
という感覚が生まれるのかもしれない。
作品は時間を奪うものではない
価値のある作品は、人が自ら時間を投資するものだ。
誰かが映画を二時間観たとして、
「監督に二時間奪われた」
とは普通言わない。
それは、その人自身が二時間という価値を見出したからだ。
作品とは、本来そういうものだ。
だから私は、
「人の時間を奪う」という価値観は、自身の作品への冒涜であり、
同時に、
アルゴリズムによる注意獲得競争を無意識に内面化した結果なのではないかと思う。
作品は、時間を奪うものではない。
価値を感じた人が、自ら時間を使うものなのである。
