誠心誠意従うべきは目上ではない道標となる人である
「孝悌忠信」と聞くと、
親を敬い、
兄を敬い、
主君に忠義を尽くし、
誠実であれ、
という教えとして理解されることが多い。
しかし、私は少し違う。
なぜ目上だから従うのだろうか。
先に生まれたから。
先に入社したから。
役職が上だから。
そんな理由だけで従うなら、それは思考ではなく権威への依存である。
もし目上が誤っていたらどうするのか。
以前、私は「真似」と「模倣」の違いについて考えた。
模倣は形を継ぐこと。
真似は意味を継ぐこと。
同じように、「従う」にも二種類ある。
人という肩書きに従うこと。
そして、自分の進みたい道を示す思想に従うこと。
前者は盲従になり得る。
後者は学びになる。
先生という言葉も興味深い。
先生とは、先に生まれた人である。
しかし、
先に生まれたことは、
先に失敗した可能性を示すだけで、
正しさを保証するものではない。
年下から学ぶこともある。
子どもの一言に気付かされることもある。
だから、敬うべきなのは年齢ではない。
私が誠心誠意従いたいのは、
自身の進みたい道を照らしてくれる人である。
その人が年上か年下か、
有名か無名か、
肩書きがあるかないか、
そんなことは本質ではない。
その思想が、自分の道標になるかどうか。
ただそれだけだ。
だから私はこう考える。
誠心誠意従うべきは目上ではない。
自身の道標となる人である。
