ジャーナリズムの本質──「正義OS」が問いを殺す構造
ニュースが信じられない。
どこを見ても、何かがおかしい気がする。
でも誰もはっきりとは言わない。
それは気のせいではない。
今の報道構造は、問いを届ける装置ではなく、
“正義という立場に最適化された一方向のOS”になっている。
■ 本来、ジャーナリズムは“問い”の媒介だった
報道の役割は、現象を速報し、構造をひらき、読者に再解釈の余地を与えることだった。
だが今、それは**「どちらの側に立つか」**を先に決めてから伝える装置になっている。
■ 「加害者・被害者」よりも、「なぜ起きたのか」を
事件や戦争が起きたとき、
“誰が加害者で誰が被害者か”を伝えることは、重要ではある。
しかし本質的に必要なのは、
「なぜ、その事象が起きたのか」という構造的な因果を可視化すること。
それこそが、本来ジャーナリズムが担うべき機能だった。
■ 正義という立場依存構造が、問いの多様性を破壊する
報道が「正義の立場」に依存した瞬間、
読者は“考える”前に“同調する”ことを求められる。
正常化バイアスが働き、
「これはそういう問題なんだ」と理解した気になる。
だがそれは、“問いを立てる前に思考を停止してしまった”状態でしかない。
■ “ヒーロー装置”としての報道構造
報道は今、
「善悪を明確にし、ヒーローとヴィランを設定し、読者の感情と正義感を刺激する装置」
として最適化されている。
だがそのとき、「なぜ」が消える。
構造は削除され、問いは“都合のいい正義”に上書きされてしまう。
■ 私は報道を否定しない。だが“構造”には異議がある
報道という概念を否定するつもりはない。
だが、“立場を取ること”と“問いを潰すこと”が同義になっている構造には、
はっきりと異を唱える。
■ 善悪ではなく構造、立場ではなく因果、意見ではなく問い
これがジャーナリズムにとっての再起動条件だ。
正義に酔う報道が悪いのではない。
正義に酔ったまま、構造の全体像を問えなくなることが、
思考を奪う最大の要因である。
私は、報道を見なくなった。
無関心になったからではない。
“構造が見えてしまった”からだ。
そして報道が問いを伝えられないのなら、
私は“報道されない問い”を書くことにした。
