飽きるということについて
最近、「AI楽曲に飽きた」という話題に対して、「自分はまだ飽きていない」と宣言する人をよく見かける。
もちろん、それ自体は悪いことではない。
しかし、その言葉には一つの前提が隠れている。
「AI楽曲はいつか飽きるものだ」
という前提だ。
人は普段、
「今日も歯磨きに飽きてません。」
「今日も読書に飽きてません。」
「今日も研究に飽きてません。」
とはあまり言わない。
わざわざ宣言するのは、その対象に「飽きる・飽きない」という空気が存在しているからだ。
つまり、
「飽きてない」
という言葉は、
「飽きる」
という価値観を共有して初めて成立する。
では、本当に飽きるのは何なのだろう。
AI楽曲なのか。
私は違うと思う。
飽きるのは表現手段ではなく、表現そのものなのではないか。
例えば、
恋愛
失恋
応援
決意
その程度の引き出しだけで作品を作っていれば、いずれ似た構図を繰り返すことになる。
すると、
「AI楽曲に飽きた」
と感じる。
しかし、本当に飽きたのはAI楽曲ではない。
自分の表現のストックが尽きただけなのかもしれない。
私にとってAI楽曲は目的ではない。
たまたま今、一番手軽に思考を形にして公開できる手段だから使っているだけだ。
もし明日、
動画の方が速い
漫画の方が伝わる
新しいAIメディアの方が自由
となれば、そちらへ移るだろう。
それは裏切りでも何でもない。
道具は道具だからだ。
だから私が考えるべきことは、
「AI楽曲に飽きるか」
ではない。
「今よりもっと、自分の考えを表現できる手段はあるか」
ということだ。
媒体は交換できる。
しかし、表現したいものがなければ、どんな媒体でもいつか飽きる。
逆に、考え続ける限り、媒体はいくらでも変えられる。
「まだまだやることがある」
という言葉も、少し見方を変えれば、
「まだAI楽曲という遊び方が残っている」
という意味になる。
私はそうは思わない。
AI楽曲でなければならない理由はない。
表現したいものがあり、それを最も効率よく形にできる手段が今はAI楽曲なだけだ。
そして、もしその程度の表現しか持っていないのなら、AI楽曲に限らず、どんな媒体でもいつか飽きるだろう。
飽きとは、媒体への感情ではない。
表現の源泉が尽きたとき、人は「媒体に飽きた」と錯覚するのかもしれない。
