「責任感」という言葉に感じる違和感
「日本人は責任感ありすぎ。」
災害時の避難誘導などを見るたびに、この言葉を目にする。
でも、私はいつも違和感を覚える。
本当に「責任感」の話なのだろうか。
責任感を持っていない人なんているのか?
例えば、災害時に店員が最後までお客様を誘導した。
多くの人は、
「責任感がある。」
と言う。
では、すぐに避難した店員は責任感がないのだろうか。
そうは思わない。
家族のもとへ帰ること。
自分の命を守ること。
これも立派な責任である。
つまり、
責任感があるかないかではなく、「何を優先したか」の違いでしかない。
「責任」という便利すぎる言葉
責任という言葉は都合よく使われすぎている。
責任感
自己責任
親の責任
企業の責任
無責任
同じ「責任」という言葉なのに、中身は全部違う。
だから、
「責任を果たせ。」
と言われても、
何に対する責任なのかは語られない。
責任という言葉だけでは、実態がないのである。
自己犠牲は責任なのか
私が最も違和感を覚えるのはここだ。
もし、
「命を懸けることが責任。」
と言うなら、
社会が期待することに従うことこそ責任になってしまう。
つまり、
責任 = 従順
という構図になる。
本当にそうなのだろうか。
自分で考え、
自分で判断し、
その結果を引き受ける。
これこそ責任ではないのか。
無責任とは何か
例えば、
店員が職務を放棄して逃げた。
「無責任だ。」
と言われるかもしれない。
しかし別の見方をすれば、
自分の命に責任を持って避難したとも言える。
つまり、
「無責任」という言葉も、
何に対する責任を優先したかを言い換えているだけである。
「責任感ありすぎ」の正体
だから私は、
「日本人は責任感ありすぎ。」
という言葉にモヤモヤする。
責任感を持っていない人間など、ほとんどいない。
違うのは、
どの責任を優先するか。
それだけだ。
もし言いたいことがあるなら、
「自己犠牲を美徳としやすい。」
「顧客を自分より優先する文化がある。」
「職務を最後まで全うしようとする傾向がある。」
そう表現した方が正確だ。
「責任感」という便利な言葉に置き換えた瞬間、
責任の対象も、
優先順位も、
本人の意思も、
すべて見えなくなってしまう。
だから私は、「責任感」という言葉を安易に使うことに違和感を覚える。
責任とは、本当にそんな曖昧なものなのだろうか。
