狐疑逡巡とは「疑うこと」ではない
「狐疑逡巡」という四字熟語は、
「疑い深く、いつまでも決断できないこと」
と説明されることが多い。
しかし、この説明には少し違和感がある。
本当に問題なのは「疑うこと」なのだろうか。
疑うことは探究の始まり
科学者は疑う。
哲学者も疑う。
研究者も疑う。
もし疑うこと自体が悪いのであれば、探究という営みは成立しない。
「本当にそうなのか。」
この問いこそ、新しい発見の出発点である。
だから疑うことそのものは、決して悪ではない。
では、何が問題なのか
問題なのは、
完全な答えが出るまで動かないこと
である。
「もっと良い答えがあるかもしれない。」
「前提が変わるかもしれない。」
「100%正しい証拠が欲しい。」
こうして仮説を採用できず、行動そのものが止まってしまう。
つまり、
疑いではなく、
完全性への執着が行動を止めるのである。
探究者は疑いながら進む
現実には100%確実なことなどほとんど存在しない。
だから探究者は、
「現時点ではこれが最も妥当だ。」
として仮説を採用する。
そして実験し、
間違っていれば修正する。
疑いは消えていない。
それでも前へ進む。
狐疑逡巡とは何か
私が考える狐疑逡巡とは、
「疑う人」
ではない。
100%の確実性を求め、仮説を採用できない人
である。
可能性を捨てられない。
だから決断できない。
だから行動も始まらない。
疑いは道具である
疑いは探究のための道具である。
しかし、
その道具を手放せず、
永遠に検討だけを続けるなら、
それは探究ではなく停滞になる。
探究とは、
疑い続けることではない。
疑いながらも、
現時点で最善と思える一歩を踏み出すことである。
だから私は、
狐疑逡巡の本質は「疑うこと」ではなく、
完全を求めるあまり、行動を止めてしまうことにあるのではないかと思う。
