死は喪失イベントではなく、メモリアルの開始点なのかもしれない
ふと思った。
生きているということは、ある種の連続性なのだと思う。
同じ空間にいて、声を交わし、日々が続いていく。
その存在がそこにあり続けること自体が、生の連続性をつくっている。
そして死は、その連続性を遮断する。
だから死は確かにイベントである。
ここでいうイベントとは、突然性ではなく、連続していた時間の質が切り替わる節目のことだ。
生という連続性は、死によって一度終わる。
その意味では、死は明確な遮断イベントだと思う。
けれど、ここで面白いのは、死が必ずしも「喪失イベント」で終わらないことだ。
死の瞬間から、別の連続性が始まる。
それが記憶であり、追悼であり、メモリアルだ。
物理的な存在の連続性は途切れる。
しかし、その人にまつわる言葉、思い出、習慣、残されたものは、別の形で時間の中を流れ続ける。
つまり、存在の媒体が変わるだけなのかもしれない。
生の連続性は死で遮断される。
その代わりに、記憶の連続性が始まる。
そう考えると、死とは単なる喪失イベントではなく、メモリアルイベントの開始点とも言える。
ホスピスのような場では、むしろ死を迎える前からこの移行が始まっているようにも思える。
残された時間の中で言葉を交わし、感謝を伝え、記憶に残す。
喪失は悲しい。
けれど、その悲しみの中で、人は新しい連続性をつくり始めている。
死とは終わりであると同時に、記憶の始まりなのかもしれない。
